コモンの「自治」論 第7章 斎藤幸平

21世紀になって、上と下という関係のなかで行っていく政治やコミュニティの在り方に疑問が抱かれるようになってきた。上と下という関係というのは、たとえば市長や議員が政策を構想して、それを押し付け、実行するのは市民であるというときの関係の事だ。その場合市民は構想(自分で考えること)ができなくなる。
 そのような垂直的な関係に対して水平的な関係による社会改革を目指そうという活動は少しづつ盛んになってきているが、その始まりはアメリカのウォール街占拠運動だ。スローガンは「1%vs99%」で、それは世界の上位1%が占領している富を99%に分配せよという意味だ。彼らはそれまであった垂直型の運動(上と下の関係)を批判し、「リーダーなき」運動として展開しようとしていった。
ウォール街占拠運動では、できるだけ多くの人が座り込みや活動を続けるために、食事をみんなで作ったり、農家が材料を届けたり、医師免許や看護師免許を持っている人たちは医療サービスを提供したり、相互補助的に行われて来た。最低減の生活が成り立つような仕組みが金融資本主義の中心である場所で生まれたのである。<コモン>とはそのような「みんなのもの」を指す。官僚や政治家が管理する国有でも、一部の起業家や企業のトップが独占する私有でもない、第三のみちである。ウォール街占拠運動では、<コモン>に大切な、人々が主体性をもって、コミュニティや生活に必要なものを生産するということはもちろん、貨幣や商品の媒介なく誰もが必要なものやサービスをシェアするということが行われてきた。資本主義のなかではお金の見返りがないとそういったことは行われないが、そのような主体的に生産し、シェアするということを行えば、生活に必要なものは満たされるのである。この中で資本主義の束縛から解放される主体性を生み出す手がかりが生まれる。
 資本主義では、資本家が「構想」を行い、労働者が「実行」することで、労働者は構想する能力を奪われている。資本主義のもとでは買い物をしたり、好きな仕事についたり、自由を享受しているようにみえるが、実際は上司や政治家に命令されて実行するだけで構想する自由を奪われているのである。
 <コモン>では、参加者が自由に意見を述べながら、<コモン>の活用方法を自分たちで決めることで、市民に構想と実行の二つの力が戻るようになる。ウォール街占拠運動はこのようなことを実現しようとしたのだ。
 しかし、ウォール街占拠運動に対してはもっともな欠陥もあった。まずは本当に「99%」の人たちによって行われていたかということだ。「99%」と一括りにしてその中の格差や差別を不可視化しているのが大きな問題であるということだ。これはどの社会運動でもありうることだが、結局は貧困層ではなく、経済的、時間的に余裕のあるミドルクラスが中心だったということだ。黒人より白人、女性より男性、貧困層よりミドルクラスの人が参加しやすいのは当たり前だ。最貧困層や重い障害を持っている人にそのような活動に参加してもらうのは現実的ではない。そのコミュニティのなかでも、余裕のある人間たちがさらに最社会的弱者の声を届けられるような仕組みを作ることが必要だろう。それは「99%」が自治の実践を政治家など、外に求めるだけでなく、そのコミュニティのなかで意識的に自治の実践を行い、つねに問い続け、制度化していくということである。社会活動を行う者にとって、誰かを疎外していないか、自分の声だけを届けることに執着していないかと問い続けることは重要なことだと思う。
そして、二つ目の問題はみんなの意見を聞き、全会一致で決める直接民主制は、資本主義を根本からかえることはできないということだ。水平的なコミュニティの在り方(デモや座り込みなどの草の根運動だけで)は、一時的には資本主義の束縛から離れることはできても、その意見をまとめたり、既得権益層、あるいは大きな資本主義に対抗するための交渉ができないからである。実際、ウォール街占拠運動も資本主義の根本を変えることなく、警察の介入によって失敗に終わってしまった。そこでは、完全に水平な運動やコミュニティの在り方というのを根本的に見直す必要があるだろう。
そこでそのような自治に必要な、「自律」にはどのようなことが必要だろうか。たとえば、1つの憲法、法律や、貨幣に振り回されるのは他律である。(しばしば過去の)規範や制度に依拠したものだけを主張するということは、自分を常に他の固定的なものに身を置いているからだ。
 

 自律というのは自分で物事を決めるという意味でもあるので「自由」と結びつけられることが多いが、その二つは全く違ったものだ。一般的な自由とは、制限がないという意味としてとらえられるが、論理的に言って制限なき自由は、動物的欲望の解放や、自分中心な生き方につながる。強制のないなかで、自分たちだけで物事を決めるというだけでは自律的自治にはならない。常に既存の規範や、ルール、自分たちで作ったルールでさえも問いただしながら、自分たちで自分たちを制限する必要がある。そうでないと、動物的欲求、個人的欲求が暴走して、ほかの人のことが考えられなくなるからだ。この後で述べるが、個々がバラバラに主張するのではなく、一定のルールの上で動くためにはリーダーが必要になってくる。そこの自己立法では、自分ではない他者の存在によって、自分たちの制限を課す。特に自分より弱い立場のことを常に念頭に置くことで、増幅しかねない差別意識歯止めをかける。これが、全員が意見をそれぞれ述べる民主主義を実行するうえで不可欠なものになってくるだろう。

そこで、そのような直接民主制を理想化するあり方ではなく、コミュニティのなかで、組織化や(法律などの)制度化(ルールを作ること)を行う必要性をはっきりと述べる。それは過去のような圧倒的カリスマが上に立ち、国民が下に立つということではもちろんなく、そのような垂直的な在り方でも、水平的な在り方でもなく、「斜め」の関係であるという。それは、リーダーは代表として、違う団体と交渉したり、意見をまとめたり、法制度化したりするが、それは大衆に突き動かされて行うのが原則である。つまり構想は市民の側にあって、リーダーがそれを実行するという状態だ。その「斜め」の関係を作り出す、維持するにもう一つ必要なことがある。それは沢山のリーダーをつくることである。今まであったような一人、突出したリーダーがいるのではいけない。斜めの関係の上側にいる統制する人間はいるとしても、それに反対できるリーダーがたくさんいるという状態だ。そのように構想と実行を行えるリーダーをたくさん作れば、市民や弱者はその人に声をとどければいいので、彼らのもとにも構想の力はもどってくる。

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