「差別のない社会」より「差別があったら怒れる社会」

障害者の本について読んでいて思ったことがある。
その本の中にはこういうことが書かれている。
障害者差別について取り組んでいる人が言った言葉だ。

「差別のない社会なんてオレたちは目指してないよ。大事なのは、自分が差別された時にどう戦うかだよ」

最初に読む人は、なぜ差別のない社会をなぜ目指していないんだろうと思うわけですね。ていうか僕もそれについての筆者の意見を読んだけれどいまいちしっくりきていない。

とりあえずそこは置いておいて、引っかかったのは2行目の文章なんですね。自分が差別されたときどう戦うか、、、かあと思ったわけです。
じゃあ精神疾患で弱って声を上げられない人はどうすればいいんだと思いました。もちろん身体障害や知的障害の人たちが弱っていないかといえばそれは違って、彼らは違う部分で苦しんでいるわけですね。
ただうつ病の人とかは、その時声を上げることすらできないわけです。

ここで思ったのが、この言葉を放った人たちもそういう人たちに対して差別をしているんじゃないかという点です。
しかし、この言葉を否定する気はありません。そこで気付かされたのが、誰かを差別せずに生きるのは不可能だということ。どれだけ自分の差別に苦しんでいて、それらの問題に敏感だとしても、それ以外のことの差別はどうしいても自分の中にあるということ。
だから、差別のない社会を作るというより、自分が差別された時に声をあげられる雰囲気を作っていくということ。そして、それを共生の社会に向けた意見としてマジョリティ側が受け入れようとする姿勢で聞くこと。

うつ病の人とか、そんな声を上げることもできないほど苦しんでいる人は、訴えることもできないという問題はまだよくわかりません。

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