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脱成長社会下の共育はじめ

前回、うつや適応障害などで学校に行けなくなる先生が増えつづけていることについて書きました。そしてみなさんもご存知のとおり、学校に行けなくなる児童・生徒も増えています。


コロナを要因に挙げて分析することもできると思いますが、コロナ前も増えつづけていたことを考えれば、もっと長い目で見る必要があるでしょう。


栗原彬は言います。

一九世紀後半・・・全国の学校で均一の時間に均一の内容を均一のシステムで遂行。

画一的な教育、官僚的な教育統制、形式的な平等をとりながらも内部で選別・序列化を構成する戦後システムの基本的な構造と実態は、一九四一年の国民教育体制にできあがっていた

一九六〇年代なかば・・・高度経済成長期に、政治システム(五五年体制)と学校教育と国民経済(大量生産・大量消費方式)と近代家族がでそろう。

八〇年代以降、国民経済は黄昏を迎えている。

教育だけが、ひとり高度経済成長時代のシステムのまま残っていられるわけがない。

明治以降、資本主義・帝国主義の上に建った教育システムの集団化・均質化・規格化を進めた日本は、戦後帝国主義的性格を後景化させつつも、資本主義的性格をより色濃いものにしつづけました。やがて国民経済は黄昏を迎えそれから失われた30年を過ぎましたが、依然(学校)教育は高度経済成長時代に最適化したシステムを維持しています。

早い話が、今の教育システムは今の社会に最適化されていません。学校に行けなくなる児童・生徒、先生が増えて当然ではないでしょうか。だって合ってないんだもの。


学校に行けなくなった児童・生徒、先生を中心に親などの周りの人それぞれが手をつなげられる場、そこから始まるのかもしれません。

根本的な問題を乗り越えるには、教育から経済優先の論理をたたき出し、そこにふれあいの論理をもちこむ以外ない。いまの教育に何かをつけ足すということでは済まされない。人間的な社会を形成する出発点に立つイメージをもつ必要がある。

お金から始まる場ではなく、人間から始まる場。それをみんなでつむいでつくり上げる。僕はそんなささやかな場を夢見ています。




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