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教育の脱構築

□景色
教育の過去と未来(1996)

国民国家と教育の問題を世界システムの変化に対応させると、三つの時期に分けられる。

一、一九世紀後半の国民国家と国民教育の成立の時期で、日本では一九〇〇年の小学校令で国民教育が確立。全国の学校で均一の時間に均一の内容を均一のシステムで遂行。

二、一九三〇年代の社会主義国家/福祉国家/ファシズム国家を選択する時期に、日本はファシズム国家を選択。帝国主義と教育制度の拡充との連動で高等教育の基本システムができあがる。

戦後の六・三・三の教育体制の実質的なほとんどの部分はこの時期に準備され、戦後にファシズム国家から福祉国家へ転換したが、基底構造は戦後も一貫してひき継がれた。

画一的な教育、官僚的な教育統制、形式的な平等をとりながらも内部で選別・序列化を構成する戦後システムの基本的な構造と実態は、一九四一年の国民教育体制にできあがっていたのだ。

三、冷戦構造崩壊後の再編の時期、新保守主義と新自由主義による政治と教育の改革が着々と進み、教育改革のレトリックは一九八〇年代なかばに産業主義から市場主義へと転換した。

□本

「国民国家と教育」『身体のダイアローグ』
栗原彬×佐藤学 太郎次郎社

□要約
戦後民主主義教育の画期的な教育改革は、教育の主体を子どもとピープル(人々)に措定したが、国民が主体的に進めたのではなくGHQにいわれて行政中央官庁が上から法的な制度化を進めたという限界があった。

次いで一九五六年に「地方教育行政の組織および運営に関する法律」が制定され、文部省の意向が末端まで浸透するようになった。再び戦中につながる形で、国家権力が教育への支配と管理を掌握した。

一九六〇年代なかば、中教審と文部省が「期待される人間像」を出す。二つあって、一つは日本の伝統的な秩序意識、もう一つは生産的な人間を育成すること。六〇年代の高度経済成長期に、政治システム(五五年体制)と学校教育と国民経済(大量生産・大量消費方式)と近代家族がでそろう。

八〇年代以降、国民経済は黄昏を迎えている。産業革命以来のいわゆる経済の第一の峰が終わりかかっていて、いまは第二の産業の峰が現れようとしている。

一つの方向性として見えてきたのが、地域の共同体に根ざした分散型の企業。エコロジカルな共同体を育てていくような企業といった方向が生まれてきた。教育だけが、ひとり高度経済成長時代のシステムのまま残っていられるわけがない。

文化が重層構造をもったなかに、共同体的なものが構成されている。国民国家はいままで平面で切りとってきていたが、縦に切って個別にみていくといろんな可能性が出てくる。例えば沖縄では、学校から落ちこぼれてしまったり、学校を逸脱してたむろする子どもたちが琉球語で会話している。

国民国家にからめとられている子どもたちだけでなく、個別にみれば国民教育の均一システムからズレている子どもたちもたくさんいる。そういう逸脱やズレをつないでいくことがいちばん大切。

増えてきている登校拒否した子どもたちが自律することを学ぶ塾や新しいネットワークなど、国民教育から落ちこぼれているところでむしろ面白い動きがある。

教育の問題も、個人の次元でとらえなおされるべき。地域で始まっている個人と個人のバナキュラーな共同性が、ネットワークというかたちでつながっていく。もし可能性があるとすれば、そういうところに生まれ変わった教育の姿がある。

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