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「待つ」という営為

□景色
避けがたい出来事に打ちのめされる、挑戦に挫折するなど、「生きがい」を脅かす経験はいつでも誰にでも起こり得る。さらに、なんとかして一刻でも早く立ち上がろうと躍起になるがうまくいかない、新たな困難に襲いかかられる、立ち上がれないことに罪悪感を覚える、ことがある。

こうしたときの「待つ」意味、「待つ」はたらき、を神谷は語る。前に進むのではなく、そこにたたずみ時機を「待つ」。それがもっとも創造的な営み。「待つ」行為を経ることで、私たちは真に自分に必要なものを自分のなかから見出すことへ導かれていく。その導きの光になる苦しみや悲しみ。

ひとは自己の精神の最も大きなよりどころとなるものを、自らの苦悩のなかから創り出しうるのである。知識や教養など、外から加えられたものとちがって、この内面からうまれたものこそいつまでもそのひとのものであって、何ものにも奪われることはない。

□本

『100分de名著 神谷美恵子 生きがいについて』
若松英輔 NHK出版 2018年

目次
はじめに
第1回 生きがいとは何か
第2回 無名なものたちに照らされて
第3回 生きがいを奪い去るもの
第4回 人間の根底を支えるもの
*第3回から構成

生きがいをうばわれたというような状況は、多くの場合、そう簡単に無意識のなかに封じこめられてしまいうるものではなく、単に意識の周辺におしやられ、そこで存在しつづけるのではなかろうか。それが意識の中心を占めるものの背景となって、これに影響をおよぼす

「生きがい」は「虚無と暗黒」の世界にあってもなお、火を灯しつづける何か。わたしたちに求められているのは、うろたえることではなく、潜んでいる何かを見る「眼」を自己のなかに開くこと。

平等にひらかれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものではなかったか。一個の人間として生きとし生けるものと心をかよわせるよろこび。自然界の、かぎりなくゆたかな形や色や音をこまかく味わいとるよろこび。みずからの生命を注ぎ出して新しい形やイメージをつくり出すよろこび。——こうしたものこそすべてのひとにひらかれている、まじり気のないよろこび

自らを包む闇が深ければ深いほど、光を強く感じるようになる、絶望とは闇の経験であると同時に光を見出す経験だったと、英国詩人ジョン・ミルトンはいう。

ミルトンは危く絶望に陥りかけるが、この時彼を再び立ち直らせたのが昔の使命感であった。当時の文書のなかで彼はいう。「私の胸のなかにいますあの天的な警告者」の「光」は「私が弱ければ弱いほどあざやかに輝き、私が盲になればなるほど、私の視力は明らかになるであろう。」

しかし詩への使命といっても、めくらの身でどうして果たせようか。その苦悩にみちた問いが、あの有名な失明についての十四行詩である。その最後の句「ただ立ちて待つ者もまたつかまえまつるなり」はけっして消極的な姿勢ではない。待つというのは未来へむかっている姿勢である。向きさえ、あるべき方向にむかっていればよい。

待つ者もまたその姿によって全身全霊で人生に誠実を尽くしている。人は待つあいだ、全身で迫りくる未来を感じている。一見すると何ら特別なことはしていないように見えるが、待つことは、全身で、どこからかやってくる未来の光を感じ、静かに準備を進めていくことにほかならない。

人間もまた外的条件に恵まれないときにはなるべく抵抗を少なくして、エネルギーの消耗をふせぎ、なんとかその時期をやりすごすほうが全体からみて得策のことがある。鳴りをひそめ、小さくなって時期の到来をうかがうその姿は、一見消極的にみえても内に強じんな自由への意志を秘めている。

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