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脱成長社会下の教育の浅瀬

前回、僕たちの社会が脱成長化において不可逆の段階に入り、かえって教育への好機が芽生えたことをお伝えしました。今回は、その好機がどんなものか、表面的な部分を見て行きたいと思います。


今の学生は無駄なものを読まない。小説や自然科学のものでも、受験勉強から大きくはずれたものはあまり読まれない。・・・無駄がなさすぎる。

非常に合理的になり、無駄が排除され過ぎている・・・論理にだけしたがってものを考えるようになっている。息せき切った一直線思考で「学問」し、これまた息せき切った一直線思考で「教育」する。

現在、横行している「教育」は、資本主義の上に成り立った教育であるため一直線思考で「教育」が行われ、合理的で無駄なものがありません(そのために間違えは許されない)。しかし、僕たちの社会が資本主義から見捨てられ・・まではないかなくともそれに近いことが起きて、僕たちは、資本主義の上に成り立つ教育の必要性を感じなくなり、やがて距離を置くようになるでしょう。


ところが学問というのはトライアル・アンド・エラーで、ひとつの正しい方向が一直線に出てくるわけではない。反対方向に向って、それがまたこちらへ戻るというような形でジグザグにゆれながら進歩するもの。

間違いを自分で一度おかさないと、ほんとうには前へ進めない。自分で間違いをおかすことが必要。

すると急いで知識や考え方を習得する必要もなくなり、自分のペースで好きなとき好きなだけ、間違えをくり返しながら、自分なりの答えをみつけ、またそこから現れた問いをみつけ、その問いに対し間違えながら・・というような学びに変わっていくのでしょう。

その頃にはAIもさらに発達していて、正解をAIが牛耳っているかもしれませんが、間違えることについては、かえって僕たちの特権になっているかもしれません。


遊んだ。余裕をもった・・・そうすると自ずとそこから人間が伸びたという気になった。いい点もあったし、悪い点もあった。単位なんかにとらわれず、もっと自由に人間をつくる。それが教養の目的。

自由がなければ教育はなりたたない。自由の雰囲気はここからきている。単に雰囲気ばかりでなく、自由というのは真の内面的な問題に関するもので、これは教育にほかならない。ことに教養ということをいう以上。自由なくして教養も文化もない。

遊びのある、余裕のある学びに変わっていく。そこから自由な雰囲気が立ち上ってくる。教育者は立ち上らせる、空気を作り変えていく。笑顔も増えるでしょう、楽しいと思う時間も機会も増えるでしょう。もっと学びたいと思うかもしれません。

教育にたずさわる者はつきつめていえば魂、精神に関わる仕事をもつ。

次回、この表面的なところから、少しだけ潜ってみたいと思います。







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