脱成長社会下の教育の浅瀬
前回、僕たちの社会が脱成長化において不可逆の段階に入り、かえって教育への好機が芽生えたことをお伝えしました。今回は、その好機がどんなものか、表面的な部分を見て行きたいと思います。
現在、横行している「教育」は、資本主義の上に成り立った教育であるため一直線思考で「教育」が行われ、合理的で無駄なものがありません(そのために間違えは許されない)。しかし、僕たちの社会が資本主義から見捨てられ・・まではないかなくともそれに近いことが起きて、僕たちは、資本主義の上に成り立つ教育の必要性を感じなくなり、やがて距離を置くようになるでしょう。
すると急いで知識や考え方を習得する必要もなくなり、自分のペースで好きなとき好きなだけ、間違えをくり返しながら、自分なりの答えをみつけ、またそこから現れた問いをみつけ、その問いに対し間違えながら・・というような学びに変わっていくのでしょう。
その頃にはAIもさらに発達していて、正解をAIが牛耳っているかもしれませんが、間違えることについては、かえって僕たちの特権になっているかもしれません。
遊びのある、余裕のある学びに変わっていく。そこから自由な雰囲気が立ち上ってくる。教育者は立ち上らせる、空気を作り変えていく。笑顔も増えるでしょう、楽しいと思う時間も機会も増えるでしょう。もっと学びたいと思うかもしれません。
次回、この表面的なところから、少しだけ潜ってみたいと思います。
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