見出し画像

学ぶ楽しさに導く父性(昔話)

安心、安全、受容を前提としたうえでの「断ずる厳しさ」(たしか2006年?たいたけの作成した先生向け資料より)

「断ずる厳しさ」を
思春期と呼ばれる子どもたちは、その感性を最大限に発揮し、学校や家庭に横たわる多くの矛盾に気づく。そして次第にその子特有の独自の世界を構築していく。「ちびまる子ちゃん」は良い例である。まるちゃんは必ずしも大人たちが正しいとは思ってはいないが、力関係上で大人たちに従っているものの、ときおりお母さんに反発したり、友だちのたまちゃんと愚痴を言っていたりする。また、自分をよく理解してくれるおじいちゃん友蔵とグルを組んで、お父さん・お母さんにデモ活動を行なったりする。あのとき読者はどちらの味方をするであろうか。
 しかし、こどもたちが多感な矛盾に気づきやすい年頃だからといって、こどもたち自身に矛盾が少ないかというとそうではなく、逆に、矛盾だらけであったりする。言動が不一致であったり、他人に求めていることと、自分の他人にしていることの整合性があわなかったりする。昨日と今日がチグハグであったりする。
 ここにこそ、先生の教えるべきことがある。こどもたちよりは長く生きている、先に生まれた「先生」は、グレーゾーンを時折断じて、白黒に分けるべきときが来る。遅刻や欠席が多すぎる生徒。悪口が多すぎる生徒。なにかにつけて勉強をいやがる生徒、宿題を全くやってこない生徒。遅刻したって、欠席したって、悪口を言ったって、宿題をしなくたって、勉強をいやがったっていい。しかし、何事にもしすぎてはいけないことがある。子どもはコンディションによっていわゆる悪行を働くが、多すぎると習慣化することがある。これは回避すべきことである。悪行には必ずグレーゾーンがあり、白に近いグレー、黒に近いグレーがある。先生はこういったことに関して断じなくてはならないときが出てくる。例えば欠席はダメだが遅刻はいい。遅刻も欠席もいいが無断での遅刻や欠席はダメだとか、悪口は言ってもいいが友達の陰口は止めようとか、勉強をいやがってもいいが少しずつ勉強していこうとか、そういった断ずる強さが先生には求められる。
 叱らないことが優しさとは限らない。叱るとは断ずることであり、白黒をはっきり付けることである。白黒を付けるということは、メリハリ、抑揚を付けること。何が正しく、何が正しくないかをハッキリと示すことである。大人、先生たちよりも人生経験のより少ない子どもたちは、グレーゾーンに囲まれ、自分で自分を断ずることができない。何が正しく、何が正しくないのかわからない。であるからこそ大人は、先生は断じなくてはならないときもあるのだ。大人、先生に断ずる強さがないと、授業ひいては教育がずるずるべったりの抑揚のない授業になるかもしれない。
 しかし、叱るのと感情的になって怒鳴り散らすのは全く違う。ときとして大人、先生自身は、子どもたちの行動を自分の思い通りにならないと思い、感情的になって怒鳴り散らす。これは軽率な愚行であり、控えるベき行動である。子どもも一人の人間であり、独自の経験、思考、感情を持っている。必ずしも大人、先生の言うことを聞くとは限らない。だからこそ大人、先生は経験を生かし、道を示す。至らなければ大人が自分を磨く努力するのみである。自分を磨く努力をしないで、物事が上手く運ばないからといって癇癪を起こすのは甚だ見当違いである。そんなことをすれば、子どもは勿論のこと、周りの大人も心が離れていくであろう。
 断ずることは重要である。断ずることによってグレーゾーンは白と黒との領域に分けられ、新たなる世界観の再構築が始まる。が、断じ方には善し悪しがある。深慮した結果、子どもを思うがゆえの断じ方をすれば良い世界観が再構築され、大人、講師自身の未熟から来るような悪い断じ方をすれば良くはない世界観が再構築されることだろう。子どもたちはグレーゾーンに囲まれている。

環境やしくみ、制度で安心・安全・受容を生み出しやすくしたうえで、学ぶ楽しさをみつけるため、場面によっては先生に「断ずる厳しさ」が必要であると僕は考えていました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?