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ふれる-ふれられる-こと(雑記)

前回、「ふれる」と「さわる」とを比べながら「ふれる」ことを見てきました。今回は、誰かが「ふれる」ならその相手は「ふれられる」わけで、その「ふれる」-「ふれられる」とはどんななのか、を見ていこうと思います。

「ふれる」-「ふれられる」は親密な間柄でしたら、お互いにあまり危険を感じないと思います。たとえば僕は毎日、軽いスキンシップのつもりで、娘や妻にふれます。ほっぺをツンツンしたり、手をつないだりします。その際、手をはたかれたり、防衛反応として攻撃されたりはしません。でも、通りがかっただけの見知らぬ人にそれらをすると、きっと大変なことになります。

伊藤亜紗は「ふれる」-「ふれられる」ことにリスクが伴うことを指摘します。

ふれる/ふれられるその瞬間には、必ず不確実な要素があり、したがって相手を信頼しないことには、そもそも接触が成立しません。相手がもともと知っている人であったとしても、触覚的に関わったことのない人であれば、ファーストコンタクトの瞬間はリスキーで、緊張を伴います。・・・目で見て理解していた相手と、手を通して知る相手は、必ずしも「同じ」ではなく、一種の「出会い直し」のショックをふくんでいるからです。
『手の倫理』 講談社選書メチエ

ではなぜ、リスクが伴う行動を取るのか。そこにどんな見返りがあるのか。伊藤亜紗はその一つに輪郭を見つけることを挙げます。

私たちは、日々の生活のなかで自分の輪郭を見失い、不安にかられることがあります。そんなとき、ふと何かに包まれたり、何かを抱きしめたりすることで、精神的な安心を得たり、確かさの感覚を取り戻したりすることがあります。さわることでさわられ、そのことによって自分の存在を確認する。私たちが輪郭を見失ったとき、触覚の対称性が確かな安らぎを与えてくれます。
同書

僕らは何げなくくらしていく中で、いつの間にか自身の輪郭を見失ってしまう。それをふたたび見つけるために「ふれる」-「ふれられる」。僕らは「ふれる」-「ふれられる」中で、自身の輪郭を再発見していく。それは心地よい、くらしをより良くしてくれる行為なのかもしれません。

ところで僕にとって妻は、その昔、恋人でした。そしてもっと昔、他人でした。他人から恋人になる際、あるいは恋人として親密性が高まるとき、先ほどのリスクを伴いながら、少しずつ「ふれる」-「ふれられる」行為を重ねていきました。あのときのドキドキは、リスクと見返りが同居し、変わるがわるにとても早いスピードでやってきていたのだと思います。それをちょっと思い出してみませんか?

初の電子書籍化してみました。あのときの、ほんのり甘ずっぱいストーリーを。

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