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職能人になる

 □景色
およそ70年前(1954)の職能人論

組織の中の一つの歯車としてしか働く余地がなくなって行くので、自分の希望する職能に全生命をかけて打ち込むことはむつかしくなってきている中ではあるけれども、組織は組織、個人は個人という生活態度をもちたい

例えばイギリスは、日本より一層はげしい変動を経ている国でありながら、国民がめいめいの職能に誇りと喜びを持つという気風が強い。エレベーターボーイのエレベーター爺になったものに、お前の息子は何にするつもりかときいたら、やはりエレベーターボーイにさせるつもりだと答えたという一口ばなしがある。

帝国ホテルの犬丸支配人が若い頃イギリスで見習いをしていた時、ガラス拭きもやったが、仲間の一人のガラス拭きに「何がよくってそんな仕事をつづけているんだ」ときいたら「まあみてなさい。おれの拭いたところと、他のやつが拭いたところでは、きれいさが違うだろう。それが嬉しくてやっているんだ」といったそうだ。

□本

「よき職能人たれ」『丸山眞男 座談 2』
長谷川如是閑×丸山眞男 岩波書店
*話し役長谷川を中心として構成

□要約
イギリスには市民的なコモンセンス、最大公約数の一般教養が共通して根底にある。ところが、明治以降の日本がヨーロッパの学問や技術も取入れた過程をみると、長い間の発達で非常に細かく分化した形のものをいきなり受け取っている。結果、各々の専門によって、めいめい既成のたこつぼにすっぽり入ったような具合である。

イギリスでは市民的なコモンセンスが各々の専門の底に一つの鉱脈、あるいは共通の泉のように流れているのに反し、日本にはそれがない。なにが専門の目的かを取り違えてしまっている。

社会機構そのものが機械化され極端に分業化された場合、自分の仕事と社会とのつながりもだんだん分からなくなるし、仕事に対する熱情とか生活に対する積極的な生きがいがなくなって、万事惰性的になり、ルーティンになるおそれがあるけれども、いくら機械の中に住まっても、職能に真剣なものはしっかりと自己を保っている。仕事にみを入れるものは精神も健全だ。

職能を離れた生活をすると誰でも堕落する。ギリシャ人は奴隷を働かせていたが、アメリカでは機械がその代わりをつとめてくれるから、閑人が生まれてくる。閑になると人は、考えるだけの生活をはじめて、イデオロギーを振り廻すようになったりする。

若い人たちは、すぐあるイデオロギーで、問題を取り上げることがある。自分の生活からにじみ出した理念ならまだよいが、他人のつくったイデオロギーを宗教のように受け取って、それで物事を見たり考えたりする。イデオロギーを持たない方がよい。思想よりも先ず自分の仕事をもつのが人間の本来。

思想的のものよりも教育は職能を重じるようにならなければならない

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