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「いのち」のために学ぶ高橋財政(雑記)

前回、国債残高が1000兆円を超えたという記事をご共有しました。

・・その国債残高ってなによ?と思われた方もいらっしゃるかもしれません。経済は、ふだんから積極的に情報を取り入れている人でもない限り、聞き慣れない、読み慣れない言葉が四方八方に飛び交っています。僕なんかはちょっと読むだけで疲れちゃうのですが、それが原因だと思っています。国債残高もそんな言葉の一つかもしれません。

国債残高=税収(1期)+税収(2期)+…+税収(無限時点)
『国債の歴史』 富田俊基 p35

要は、国債残高とは今を含めた将来の税金です。

それがいま1000兆円を超えているというのです。なぜこんなに累積したのか。その一因に高橋財政を参考にしたため、というのが挙がるかもしれません。

景気低迷が長期化し、デフレ懸念が続いた一九九〇年代の末から、デフレ脱出の処方箋が昭和恐慌から脱した高橋財政にあるのではないかという観点から、三〇年代の経済政策への関心が高まった。
同書 p403

高橋財政というのは、1931年〜1934年に高橋是清が大蔵大臣を務めていた時期におこなわれた政策群のことです。

その政策の根幹は、財政政策ではなく、通貨供給の増大と低金利政策の遂行にあった。
・・・
高橋是清蔵相は対外資本流出を規制し、通貨供給の増大と低金利政策を推進した。日本を金融的に鎖国し、金融緩和政策を進めたのである。
同書 p408,413

そして

日本銀行の歴史上最大の失敗と自らが総括している国債の日銀引受という、非常に破天荒な政策が行われる
同書 p417

その後の1936年予算作成時に、高橋蔵相は国債減額を提案しますが、軍部の拡大要求とぶつかり二・二六事件に倒れます。高橋財政が終わっても、国債は戦後まで増大の一途をたどっていきます。

同書 p416
結局、三年八ヵ月にわたる太平洋戦争のあいだ、縮小再生産と不換紙幣の大増発によるインフレーションが進行したのはいうまでもないところでした。そして、昭和二十年八月十五日に戦いは終わったのですが、これを契機として、それまで何とか維持されていた経済統制の力は急に弱まり、インフレーションはせきを切ったような勢いで進みはじめました。
 このため、昭和二十一年二月に金融非常措置が実施され、預金を封鎖するとともに、既発行の日本銀行券まで預金として強制的に預入させて封鎖してしまい、以後、法令の定める限度までしか支払いを認めないこととしました。
『インフレーションの話』 田添大三郎 日本経済新聞社 p183

国債増大の一途の先でたどり着いたのは、激しいインフレと金融非常措置、預金封鎖・新円切替でした。

明治六年から昭和十九年までの約七〇年間に、物価は約九倍に上昇しましたが、昭和十九年から二十四年までのわずか五年の間に九〇倍以上に高騰している・・・いかにこの間のインフレーションが悪性のものであったかがわかると思います。
同書 p184

物価が5年で90倍..。戦争が終わっても人々の生活難はつづき、たとえば裁判官である山口良忠が1947年に栄養失調で餓死しています(次回、戦後インフレをもう少し詳しく見ます)。

高橋財政を通してお伝えしたかったのは、国債が増大しつづけた結果、激しいインフレが起こり預金封鎖や新円切替がおこなわれたことを、歴史が教えてくれるということでした。

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