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木彫りをふれてみる(雑記)

もうひとつだけ木彫りに関して

瀧口政満という木彫り彫刻家がいます。アイヌコタンで彫りつづけていましたが、アイヌの方ではありません。ご実家は山梨。幼いころ難聴になり、お父様がそれでも何とか生き抜いていけるようにと千葉の聾唖学校に入寮させます。その後、瀧口は高校で木工科を選び、やがてアイヌの木彫り彫刻家の道を開いていきます。

学校に通っていたとき、「自分はろうだからだめなんだ」と言っている人を何人も見てきたが、私はそれは違うと思っていた。ろうだからといって、すべてのことができなくなったのではない。ろうであることは、しょうがない。でも、目で見て、手で作り出すことは、聴こえる人と同じようにできるのではないか。
『樹のなかの音』 クレイン

こちらは祈りという作品です。瀧口は樹を見れば、なかの年輪が見えたと言います。

このようになるのが、彫る前から見えていたということです。凡人の僕にはちょっと何言ってるかわからないというお力です。

自分の目で見たとき、形に何かはっきりしない、つじつまの合わない、怪しいと思われる点があったり、ふらふらして、上っつらをすべっていく恐れがある場合には、自分の内的感覚の指をあてがって、見定めることのできなかったこの形のなかに、精神の姿をさぐろうとこころみてみたまえ。魂が純粋でおちついており、感覚がこまやかであるなら、まちがいようもない沈黙の神託が開き示されるのをまもなく聞くであろう。そしてその手は、その捉えたものを形に作ってみようと、おのずから動き出すであろう。
ヘルダー 『彫塑』 中央公論社

瀧口は目で見、手でふれ、心と経験とで樹のなかの音を聞くことができたのかもしれません。

人はただ、存在し、感知しさえすればいいのである。ひたすら人間であることだ、どのような性格、どのような姿勢や情念にもひそむ魂が、われわれ自身の内部に働いていることを、目を用いずに感得し、それから手でさわってみることだ。これこそ、声高に語る自然のことばであり、あらゆる国民、そればかりか、目が見えない人にも耳の聞こえない人にも聞きとれることばなのだ。
同書

卓越した感覚、磨きつづけられた技術と心の目によって生み出されたこの作品にふれると、耳の聞こえない人にも聞きとれることばはたしかにあり、かえって忙しないくらしをしている耳の聞こえる僕こそ、そのことばを聞こえていないことに気づかせてくれます。

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