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純文学と大衆文学の違い

おはようございます。
日曜日、朝からビールを開けるか悩み中です。

皆さんは、普段読書をしますか?

なるほど、たくさんするようですね。
私はある程度読書します。主に純文学と呼ばれる本を読みます。ここで、生まれ一つの疑問は純文学ってなに?ですよね。永遠のテーマです。

もちろん僕も正解はわかりませんが、自分なりの解釈を今から話していこうと思います。

 
 まず、一つ言っておきたいのは、大衆文学に対して、純文学がより高尚なものということではないということです。大衆文学という、言い方が悪いですよね。大衆文学には、その大衆文学の良さというものがあります。


 次に、わかりやすい例なのですが、芥川賞と直木賞という、大きな新人賞があります。芥川賞は純文学の、直木賞は大衆文学(正確にいうと、エンターテイメント性に優れた小説)の新人賞です。これがわかりやすい、見分け方かもしれません。この二つの小説のそれぞれの受賞作を読めばなんとなーくわかってくると思います。

 そして、次にネットの情報より抜粋して、純文学と大衆文学の違いを話していきます。
よく書かれているのが、純文学はより、「芸術的な表現」を大切にするものであり、大衆文学は「ストーリー」を大切にするものである。ということです。
まぁ、わからなくもないですよね。でも、もっと違うんだよなーとも思いますよね。

ということで、僕の思う二つの違いを言います。
 僕が思うに、大衆文学はその本への解釈の正解があるのに対し、純文学にはその本への解釈の正解がない。ということが二つの大きな違いだと思います。
 大衆文学は読んで理解できるもので、純文学は、読むだけでは理解できず、自分の経験や考え方と合わせてやっと完成されるものだと思います。
 だから、答えは読む人の数だけあっていいというのが純文学なのです。
やっぱり表現するのが、難しいですね。

正解はおそらくないですし、もしかしたら、わけてかんがえる必要はないのかも知れませんが、なんとなく、読んで、じわじわ心にくるのが純文学が多いんです。

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