生き延びるというCoreがイノベーションを成功させる

特許発明から世界シェアトップでも”社外だけで評価”される

「イノベーション」という言葉が一般化し、どこもかしこも「イノベーション」ですよね?だけども、それはイベント化しており、なかなか実態が見えてこない。

私自身、1999年に特許発明し商品開発、マーケティングにより世界シェアトップの事業化に成功しています。その実績が”社外だけで評価”され、国立大学、国立大学大学院の講師や、総務省や経産省、一部上場企業からの依頼でで講演やワークショップを提供しています。”社外だけで評価”とあえて言っておきます。ここに日本企業が堕落したすべての理由があるからです。このマガジンを通してその理由とそれに向き合う視点、行動を示していきます。さて、私が1999年の特許発明からの事業化に成功したころ「イノベーション」という言葉は、日本ではあまり言われていませんでした。ちょうど、大前研一氏が有名になり経営企画のエリートはMBAホルダーが増えていった頃だったと思います。話を1999年から1993年に戻します。

入社2年目に絶望。死んでるみたい。それでも生きねば・・

私は1993年に入社、しかし1994年に自動車事故で一週間ICU。脳は壊死。頸髄損傷。右半身に麻痺。当時は高次脳機能障害や低脳圧症候群などの診断はされておらず、強度の鞭打ち程度の診断しか出ませんでした。2週間の入院から退院したものの、現実感がなく、ぼーっとし記憶できない、思考できない、うつ状態・・・生きてるような、死んでるような・・・廃人です。2年ほどそんな状態ではありましたが、NTT研究所の方や、当時のビジネスユニット長の計らいで、茨城県東海村のNTT光エレクトロニクス研究所に常駐。転勤をすることになります。そこで、事故が原因で壊れてしまった人間関係や周囲からの「なまけ病」という誹謗から隔離してもらえたわけです。そして、光コネクタの技術移転資料を編集する。という業務を中心に、壊れた心身を養生、再生していく機会に恵まれました。

生き延びるには「制約理論」

不定愁訴、鬱、朦朧とすることもありましたが、とにかく「生きていかねば」「生き残らねば」そのためには、目の前の仕事をできる範囲で頑張る。やりに抜く。だけです。朦朧としていても、なんとか頭が動く日、時間があります。そのタイミングで一気にやる。具合が悪いときは、実験室にこもって、倒れる。具合が悪くなることを見越して、8時間の測定プログラムを作って、試料監視、機器監視という理由のもと実験期間の2週間を地下室の測定器の前にで倒れている。ということを繰り返しました。

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