何故に「自由と寛容」が大事なのか。答「勝てるから」
諸葛孔明の丞相府の布告{董和伝 より}
もしもわずかな不満によって人を遠ざけ、自分と意見の違う者を非難して検討しなおすことをいとうなら、仕事に欠陥を生じ損失を招くであろう。異なる意見を検討し直して適切な施策ができれば、ちょうど破れ草履を捨てて珠玉を手に入れるようなものである。
晏子春秋 より
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問下 第四 八
景公問ふ、国如何なれば則ち安しと謂ふかと、晏子対ふるに内は政を安んじ、外は義に帰するを以てす【第八】
景公は晏子に問うて「国はどのようになれば安らかだといえるだろうか」と言った。
晏子は答えて
「下が忌みはばかって物を言わないことがなくなり、
当路には民に怨まれる政治がなくなり、
通人も窮人もそれぞれの分を守り、
賞罰が公平であり、
人には それぞれの待遇が与えられ、
国家間の侵伐がない。
そのようであれば、人民はその政治に安んじ、諸侯はその道義に帰服し、国を安んじたといえるでしょう」
と言った。
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貞観政要 より
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貞観二年、太宗、魏潰に問いて曰く、「何をか謂いて明君、暗君となす」。
徴日く、「君の明らかなる所以の者は、兼聴すればなり。その暗き所以の者は、偏信すればなり。詩に云わく、『先人言えるあり、芻堯(すうぎょう)に訪う』と。昔、唐虞の理、四門を闢(ひら)き、四目を明らかにして四聡を達す。是(ここ)を以って聖、照らさざるなし。故に共鯀(きょうこん)の徒、塞ぐ能わざりしなり。靖言庸回(せいげんようかい)、惑わす能わざりしなり。秦のニ世は則ちその身を隠蔵し、疎賤を捐隔(えんかく)して趙高を偏信し、天下の潰(つい)え叛くに及ぶまで、聞くを得ざりしなり。梁の武帝は(朱い)を偏信し、而して侯景、兵を挙げて闕(けつ)に向かうも、竟(つい)に知るを得ざりしなり。隋の煬帝は虞世基を偏信し、而して諸賊、城を攻め邑(ゆう)を剽(かす)むるも、亦知るを得ざりしなり。この故に人君、兼聴して下を納れなば、則ち貴臣壅蔽(ようへい)するを得ずして、而下情(しかかじょう)、必ず上に通ずるを得るなり」。
太宗甚だその言を善しとす。
現代語訳
貞観二年、太宗が魏微に尋ねた。
「明君と暗君はどこが違うのか」
魏微が答えるには、
「明君の明君たるゆえんは、広く臣下の意見に耳を傾けるところにあります。
また、暗君の暗君たるゆえんは、お気に入りの臣下の言うことしか信じないところにあります。
詩にも『いにしえの賢者言えるあり、疑問のことあれば庶民に問う』とありますが、聖天子の堯や舜はまさしく四方の門を開け放って賢者を迎え入れ、広く人々の意見に耳を傾けて、それを政治に活かしました。
だから堯舜の治世は、万民にあまねく恩沢が行きたわり、共工(きょうこう)や鯀(こん)のともがらに目や耳を塞がれることはありませんでしたし、巧言を弄する者どもに惑わされることもなかったのです。
これに対し秦の二世皇帝は宮殿の奥深く起居して臣下を避け、宦官の趙高だけを信頼しました。そのため、完全に人心が離反するに及んでも、まだ気づきませんでした。
梁の武帝も、寵臣の(朱い)だけを信頼した結果、将軍の侯景が反乱の兵を挙げて王宮を包囲しても、まだ信じかねる始末でした。
また、隋の煬帝も、側近の虞世基の言うことだけを信じましたので、盗賤が村や町を荒しまわっていても、故治 の乱れに気づきませんでした。
このような例でも明らかなように、君主たる者が臣下の意見に広く耳を傾ければ、一部の側近に目や耳を塞がれることがなく、よく下々の実情を知ることができるのです」
太宗は魏賤のことばに深く頷いた。
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抜粋終わり