お勉強。一神教的馬鹿からの逃走。


より


上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:所謂「KK」問題から見えてくる近代日本の深層にある両建的権力構造。自他の思想・見解から「間合い」を取るという事=「見を離れる」事。江戸時代の学問についての考察。
〇俗に言う「KK」の問題は、明治以来の国際秘密力の対日工作の大本命の一つ「皇室基督教化」の中で生じた事象と分析する。それは周辺状況を見れば明らかだと思う。内親王と「KK」が出会ったのがICU(ロックフェラー系の基督教系大学。ロック4世も留学)、「KK」が通う「フォーダム大学」はイエズス会系、

〇「KK」の後援者と噂される華僑系弁護士はロヨラ大学出身(イエズス会創設者イグナチウス・デ・ロヨラの名を冠する大学)、秋篠宮家と三菱(≒ロックフェラー)の関係→「KK」は三菱UFJ銀行出身、「誹謗中傷」という言葉でメディアの論調を一変させた宮内庁の初代長官はクェーカー教徒・田島道治など。

〇あの奇怪な親子は単独ではないと見ている。諸々の「お膳立て」が出来過ぎている。400万の借金を返せないのに「フォーダム大学」に通う資金はどこから出たのか?素朴な疑問である。秋篠宮家・それ以外など諸説あるようだが、基督教人脈や三菱→ロックフェラーの関係を考えると、あまり差はないと思う。

〇明治以後の欧化主義的史観では「孝明天皇」と言えば「頑迷固陋な攘夷論者」扱いをされるのが常だが、今の皇室及びその周辺の有様を見れば、孝明天皇の攘夷論に理があったのは明らかだと思われる。だから排除されたのであろう。明治天皇以後の歴代天皇は英国のガーター騎士団員である。国史は壊された。

〇「KK」が通うイエズス会系フォーダム大学から名誉博士号を授与されたのが、カトリック教徒の田中耕太郎である。田中はカトリック系の家庭からの入内に関わった。また、マッカーサーは時の皇太子の家庭教師にクェーカー教徒のヴァイニング夫人を付けた。同じく東宮御教育係の小泉信三は英国聖公会信者。

〇東宮侍従の濱尾実は熱心なカトリック信者でバチカンの枢機卿だった濱尾文郎の兄。同じく侍従の入江相政もカトリック信者だったと記憶する。皇室周辺の基督教濃度は普通の日本国民の比ではない。明らかに意図的な配置としか思えない。国際秘密力が最も重視する対日工作の一つなのは明らかと言えよう。

〇宮内庁が「誹謗中傷」の語を使っただけでメディアが「礼賛」論調一色になったのが気持ちが悪い。「讒謗律」のみならず「不敬罪」も容易に復活可能だと示している。明治以前には不敬罪など存在しなかった。愚管抄や日本外史など史書には天皇批判があるし、諸々のスキャンダルめいた史話も伝わっている。

〇「諸々のスキャンダルめいた史話」とは、例えば、崇徳天皇が父とされる鳥羽上皇の実の子ではなく白河上皇の子であり、鳥羽上皇が崇徳天皇を「叔父子」と呼んでいた話などである。上記の逸話は「古事談」という書物に載っている。こういった話は「誹謗中傷」として焚書される事もなく今に伝わっている。

〇「天皇教」とも呼ばれる天皇を絶対神化して一切の批判を許さないという教義と体制は伊藤博文らが基督教を模倣して作った。急速に西洋化を図るに際し西洋社会の根底にある基督教をモデルとする宗教を作ろうとした。この「天皇教」と平田派国学を元にした「国家神道」が明治政府のイデオロギーとなった。

〇俗に言う「KK」問題には、英国のガーター騎士団・四囲を取り巻く基督教人脈(カトリック・クェーカー・聖公会)・英国王室との親密さ・英国貴族仕込みの英語やライフスタイル・ICU入学等々一般の日本国民と比較にならない程の皇室及びその周辺の西洋化が背景にあると見る。これが深層と本質であろう。

〇裏権力派閥で言うと、英国系フリーメイソンとバチカンによる共同の工作と見られる。その目的とは「天皇を囲い込み傀儡とする事」。基督教化はその為の手段の一つである。英国系フリーメイソンの対日戦略の根本がここにあると分析する。宣教師がキリシタン大名を傀儡化した手口と基本的に同じである。

〇戦国時代にイエズス会は大名をキリシタン化したが、時の正親町天皇は「でうす払い」の綸旨を出し宣教師を京都から追放した。秀吉の伴天連追放令が出る20年以上前の事である。この時は天皇のキリシタン化に失敗した訳である。結局、追放令や禁教令によってキリシタン大名も消え、野望は潰えるに至った。

〇国際秘密力はこの時の失敗を「反省」し日本への復讐を果たす為に徹底的に「玉」に照準を合わせる戦略を採用したのだと推測する。実際、明治以後は皇室周辺や上流階級ほどカトリック教徒が多い。天皇さえ押さえたら日本人全体のキリシタン化も可能と踏んだのだろう。その為の道具が「天皇教」だと見る。

〇戦略的順序としては「➀天皇を傀儡化する→②天皇絶対の天皇教を作る→➂天皇教という道具によって日本人全体を支配する」となると思う。全てが有機的に連関している。イエズス会は一部の大名をキリシタン化させる事で国土の一部を占拠した。これを日本全体でやるには天皇を押さえるのが不可欠となる。

〇一方、反天皇の立場を取る裏権力派閥は仏蘭西系フリーメイソン=大東社系、在野のプロテスタント系諸派(カトリックとの両建)、格は下がるが朝鮮半島系新興宗教などである。大東社系左翼はコミュニスト系とアナキスト系に分かれるが、反天皇という点では一致する。プロテ系は一部が皇室に接近した。

〇大東社系はソビエトのコミンテルンが1932年に出した「32年テーゼ」にて当時の日本の体制を「絶対主義」と規定し、これを河上肇が「天皇制」という語で訳した。つまり伊藤博文らが作った「天皇教」を「天皇制」という語で初めて概念規定した訳である。ここに「天皇教」と対の「反天皇教」が成立する。

〇ちなみに河上肇は長州藩の支藩とみなされる岩国藩出身である。奇しくも「天皇教」を作った伊藤博文と「天皇制」という訳語を作った河上肇が同じ長州系。このように「天皇教」と「反天皇教」は英国系フリーメイソンと仏蘭西系フリーメイソンの両建を反映しており左右両建構造の深層構造でもあると見る。

〇ちなみに昭和天皇を狙撃した難波大助や226事件の指導者・磯部浅一も長州系である。「天皇教」と「反天皇教」は右手と左手。これは英国系石屋と仏蘭西系石屋の戦略方針の反映だと分析する。つまり、天皇を傀儡とするメーソン的な王政国家とするか、メーソン的な大棟梁(大統領)制国家とするかの違い。

〇今の左右両建構造はここに根本がある。政治的意識に目覚めた大半の日本人はいずれかの陣営に囲い込まれる。英国系フリーメイソンの系統か仏蘭西系フリーメイソンの系統か。細かく分けると様々な思想派閥があるが、大抵はこの両陣営に収まる。例えば日本だとカトリック系は前者とプロテ系は後者と近い。

〇カトリック系が親天皇なのに対しプロテスタント系は基本的に反天皇だが、一部は親天皇である。例えば、マッカーサーが設立に関わったICUは誰もが知るように皇族との関係が深い。英国聖公会はカトリックから分かれたものだが、教義や儀式はプロテスタントよりカトリックに近い要素を残すとも言われる。

〇実際に英国聖公会はカトリックと同様に皇室に近い。小泉信三は英国聖公会信者だった。ちなみに景教渡来説と日猶同祖論で有名な佐伯好郎は聖公会信者でビクトリア女王の侍女だったゴルドン夫人に賛同していた。これは日英同盟下での思想活動である事を考えると、英国系石屋の戦略に沿うものとみられる。

〇日英同盟を推進したのは英国系フリーメイソンの林董だった。明治天皇がガーター騎士団に入ったのは日英同盟締結後である。この辺は全て英国系フリーメイソンの仕掛けという事が推察される。そして、こうした状況下で流布され出したのが日猶同祖論であり景教渡来説であったのである。全て連関している。

〇「天皇制」という言葉の元になったコミンテルンの「32年テーゼ」は、「日本は絶対君主制なのでプロレタリア革命ではなく、まずはブルジョワ民主主義革命を起こせ」と二段階革命を指示する日本共産党への指令書である。まさに大東社系戦略の典型を示しているが、中国とは違って主流とはならなかった。

〇近代以降の日本と中国の両建構造がここにある。英国系フリーメイソンの影響下にある日本と仏蘭西系フリーメイソンの影響下にある中国の両建構造である。ソ連は英国系石屋の縄張りの日本では赤化革命を起こせないと見て、日本共産党から中国共産党に重点を移したようだ。これが今の日中両建に繋がる。

〇そういえば、日本共産党の宮本顕治や野坂参三も長州系である。やはり「天皇教」と「反天皇教」は長州系の人脈によって作られたようだ。近代日本で主流になったのは前者だったが、野党的勢力として後者も影響力は持っている。これが与野党両建構造に通じると見る。両陣営共に世界連邦運動に関りが深い。

〇伊藤博文らが大日本帝国憲法と並行して基督教をモデルに作った「天皇教」と、ソ連コミンテルンの「テーゼ」に基く「天皇制」という概念の創出。これで近代日本の左右両建構造の思想的な対立軸が決定された。近代以前の日本人が知らなかったものである。奇しくも両方に長州系人脈が関与したという事実。

〇「長州系人脈」とはあくまで明治から続く近代日本の権力者の人脈の事であって、一般の山口県民の事ではない。そこをはき違えると、日本国内で日本人間の地域差別と分断を生む可能性があるので一言をしておきたい。天皇の失政批判も出る講孟箚記を見るに吉田松陰と弟子共にも乖離があるように感じる。

〇山県有朋の山城屋和助事件など長州閥は異常に金に汚いのが特徴である。木戸孝允が欧米視察から帰国後に真っ先にやったのは長州閥の汚職のもみ消しであった。吉田松陰の著書を見ると真面目一筋の人格が感じられるが、弟子との乖離を感じざるを得ない。長州閥の真の「師匠」は英国系裏権力派閥だろう。

〇「長州閥の真の「師匠」は英国系裏権力派閥」というのは比喩でも誇張でもない。伊藤俊輔や井上聞多ら5人の長州藩士がトーマス・グラバーの斡旋で英国に秘密留学した。彼らは「長州ファイブ」と呼ばれる。近代日本はプロシャの制度を模倣したが、根本的に英国系フリーメイソンの影響下に取り込まれた。

〇明治体制を礼賛する似非保守系政治屋が、金に汚いのは、長州閥の体質を受け継いでいると言える。アベは「吉田松陰先生」と常に言っているが、松陰はおそらく平気で嘘をついたり金銭に不潔な連中を潔癖なまでに毛嫌いするタイプだと思う。不肖の弟子共の末路を見ずに済んだのは幸いだったと言うべきか。

〇話は変わる。ゴルドン夫人は1921年に"the meeting between the Japanese and British crown princes signified the long-awaited reunion of Judah and Israel"(日英の皇太子の会談は待望されていたユダとイスラエルの再会を意味する)と述べた由。要するに日猶同祖論である。https://en.wikipedia.org/wiki/Japanese-Jewish_common_ancestry_theory

〇ゴルドン夫人が「ユダとイスラエルの再会」と言ったのは昭和天皇が皇太子時代に英国訪問し英国の皇太子と会談した事を指すと思われる。この発言は日猶同祖論と英猶同祖論が前提。日猶同祖論の前に英猶同祖論があった。これで日猶同祖論が如何なる背景で唱えられたかが分かる。英国の対日取り込み策。

〇この文面ではいずれが「ユダ部族」で「イスラエル部族」の設定なのかが明らかでないが、とにかくゴルドンは英国王室と日本皇室は共に「古代猶太の末裔」であり、両国皇太子の会談を「待望の再会」としているのは確かである。聖公会信者の佐伯好郎が日猶同祖論を唱えた背景もこれで透けて見えるだろう。

〇エリザベス・ゴルドンは景教渡来説や仏基一元論を唱えた事で有名だが、日猶同祖論者でもあった事が先述の発言で分かる。ビクトリア女王の侍女だった人物なので、只の物好きの好事家ではないだろう。親英派の代表的政治家で早稲田大学の創設者でもある大隈重信と親しく、講演等を行っていたようである。

〇田布施の大室近祐なる人物の発言を元に「天皇すり替え」説を提唱した鹿島昇も日猶同祖論者で皇室と猶太の関係について論じている。鹿島の後継者の松重何某という郷土史家は元共産党員・日韓親善協会の幹部で日韓トンネル構想を主張。統一協会系の鮮猶同祖論もある。同祖論繋がりは芋ずる式な所がある。

〇「すり替え説」は事実と捉えて論じている陰謀追及者は少なくないが、これを主唱した面子には韓国系の影がどうしてもちらつく。「日本と韓国をトンネルで繋げよう」という主張は、どう見ても統一系の主張と被る。論と人は別とは言え、背後関係の胡散臭さを見ると仮説の一つと受け取った方が無難と思う。

〇前述の郷土史家の著書のプロフィールには「ライオンズクラブ会員」ともある。ライオンズクラブはロータリークラブと並びフリーメイソンの系列組織だと言われている。日猶同祖論は英国系フリーメイソン人脈が広めたのは明白。同祖論や「偽史」人脈を辿ると結局はそこに行きついてしまう。佐伯好郎然り。

〇太田龍の「天皇破壊史」では主に鹿島説を元に論じているが、何故か大本教関係の資料も引用している。太田氏は「大本教の宣伝色が強い」としつつ内容はほぼ肯定している。孝明天皇は弑逆された可能性が高いと見るが、様々な勢力の思惑が絡み色々な「説」が唱えられるという魑魅魍魎の有様となっている。

〇オカルト業界や偽史界隈は「魑魅魍魎」や「妖怪」が蠢く「百鬼夜行」の観がある。様々な思惑から様々な「説」が唱えられる。それぞれが怪しい魅力を放っており、魅了される者も多い。元締めを辿ると全て英国系石屋に行き着くと見る。分析力や耐性が無い者が下手に関わると正気を失う危険な世界である。

〇日猶同祖論を実際に広めたのは大本教関係者だと思われる。「維新の志士が全員集合している」とされた「フルベッキ写真」の流布にも大本人脈が関与したようだ。英国系石屋が元締めで、大本系人脈が日本国内での流布元の可能性が高いと見ている。そこに韓国の旧統一協会系人脈が関わるという奇怪な構図。

〇「分析力や耐性が無い者が下手に関わると正気を失う危険」と書いたが、ここで言う「耐性」について考察する。耐性とは(対象に)「取り込まれない事」「引きずり込まれない事」「呑み込まれない事」。逆から言うと、「対象と距離を取る事」である。つまりは「間合い」である。対象と間合いを取る事。

〇対象と「間合い」を取らずにいきなり組み付くと「ブスッ」とやられかねない。剣道専攻の警察官より柔道専攻の警察官の方が殉職率が高いと聞いた事がある。日頃の柔道の習慣で犯人に組み付くからだとか。物理的にも精神的にも「間合い」を取る事が非常に重要だと考える。これがないと簡単にやられる。

〇間合いに関し中論で「見(見解)を離れる」というのが参考になる。これは、あらゆる見解に執着せず、距離を取る事だと解釈する。あらゆる見解から距離を置き、冷静に分析・考察する事。これは「悟り」などという高遠なものではなく、自分で考える人なら誰もが身に着けておくべき能力であると思われる。

〇「見(見解)を離れる」とは「見解を持たない」という事より「特定の見解を鵜呑みにしない・盲信しない・執着しない」という事に比重があると思われる。中道的な思考の為に不可欠の条件と言える。何らかの見解を聞いて話に引き込まれた場合にすぐにそれを信じるようでは到底独立的思考はおぼつかない。

〇「分析力と耐性」と並べたが、両者は密接に関連している。「耐性」を持つ(対象から距離を取る)事で心の余裕が生まれ、それによって冷静な「分析」が可能となる。対象に近づき過ぎると全体像が見えなくなる。対象から距離を置く事で全体像が見えて冷静に分析出来る。「間合い」は独立的思考に不可欠。

〇「間合いを取る」のは自分自身の見解も例外ではない。自分の見解を絶対視せず、冷静に考察する視点をも持つ。歴史観は宗教に似た所がある。盲信すると正気を失い冷静な思考が不可能になる。「偽史」界隈に「魑魅魍魎」が蠢いているのはカルト宗教と同質だからである。自他の「見」にとらわれている。

〇特定の歴史観を絶対視する者とは会話が成立しない事が多い。カルト信者とは会話にならないのと同じである。「宗教は危険」「イデオロギーは危険」と言われるが、宗教や主義に限らず歴史観も同じである。本質を言えば、「見」にとらわれているという事である。「見」を離れねば冷静な思考も対話も無理。

〇「自他の見解から離れる」とは、見解を「持たない」事や様々な見解を「知らない」事とは違うと考える。自分なりの見解を持ったり、世の中にある様々な見解の内容を知りつつも、それらと「間合い」を取れる事。これが事理(事実と道理)に即する冷静・中正な中道的思考・独立的思考の条件だと考える。

〇対象との「間合い」を取らないとどうなるか。例えば、戦前の陰謀追及者が猶太を批判的に研究している内にいつの間にか感化されて親猶太的な日猶同祖論者に変貌する、というパターンが多かった。研究対象と間合いを取らない為に対象の思想や世界観にどっぷり浸かってしまい、引きずり込まれた訳である。

〇「見(見解)を離れる」とは、「(自らの)見解を持ちつつも見解に固執・執着しない」「(他の)見解を知りつつも見解に固執・執着しない」という事だろうと思う。これが吾人の言葉で言うと対象と「間合い」を取るという事であり、「耐性」にも繋がってくる。耐性を鍛えると簡単に惑わされなくなる。

〇別の表現だと、「見を離れる」とは「カルト的思考を離れる事」である。ドグマにとらわれると冷静な思考が不可能となる。「魑魅魍魎」とか「妖怪」と言ったのは、特定のドグマに執着して正気を失っている者の事である。表象が膨らんで収拾がつかなくなっている。思考のあり方次第で人間は化物と化す。

〇歴史の話は「信じる」「信じない」の話になりがちである。こうなると歴史観は宗教に近くなる。歴史は事実の問題なので、「信じる」「信じない」の話にしてはならぬと思う。歴史とは確かな根拠や証拠に基づいて冷静に探求すべき対象だと考える。個人的には考証に優れていた江戸時代の学問を範としたい。

〇江戸時代の学問は驚くほど精密・精緻・緻密な方法論を持っていた。吾人の知識など生かじり以下のレベルではあるが、自分の探求方法としては理想はその辺に置いている。西洋近代の諸学は実証主義を売りとするが、西洋中心主義的な偏見を感じるので共感しない。やはり土着的な伝統的学問を範としたい。

〇「分析力や耐性」のうち「耐性」について考察したので、今度は「分析力」について考える。個人的には「個々の事象を孤立した事象とは見ず、他の事象と関連付けて見る癖をつける」事で分析力が飛躍的に向上すると考えている。個々の事物事象を他の事物事象との関係や全体の構造や文脈の中に位置付ける。

〇例えば、個々の政治的事件を孤立した事象と見るのではなく、国内外の両建構造の中に位置付けて観察する事でその本質がクリアに見えてくる事がある。ある事象が生起するには必ずそれなりの原因・条件や背景をなす文脈・構造がある。それらを常に考慮する事で個別の事象の性質が明瞭になってくると思う。

〇日猶同祖論など各種思想ツールの考察でも前記のような思考方法が欠かせない。この場合「他の事象との関連を考慮する」とは日猶同祖論と英猶同祖論など他国の○猶同祖論を比較対照する事である。「全体の中に位置付ける」とは、「宣教師の布教手段として始まった」という歴史的文脈を押さえる事である。

〇「分析」とは辞書的な定義では「複雑な事柄を一つ一つの要素や成分に分け、その構成などを明らかにすること。(デジタル大辞泉)」である。だが、単に個々の要素に分けるだけでは不十分である。個々の要素を実体視して他の要素や全体との連関を無視すると、かえって子個々の事象の本質が見えなくなる。

〇個々の事物事象の性質を知るには、他の事物事象や全体の文脈・構造との関係性を考慮するべきである。常に関係性を考慮するようにすると、分析力が飛躍的に上がると考えている。例えば、ある言語の特定の単語の性質を知るには、他の単語や言語全体の構造との関係性を考慮する必要があるのと同じである。

〇何らかの説・見解が流布されている場合、すぐに信じ込むのではなく、その説・見解を取り巻く関係性を見るようにすれば、冷静に対応出来る。「事実という根拠は何か」「客観的な裏付け資料があるか」「誰が・何の目的で流布しているのか」「流布者の思想的人脈的背景は何か」「両建の可能性は」..等々。

〇➁共時的な関係性とは、同時的な関係性である。「地面と人」のような空間的な依存関係や「親と子」「長と短い」のような論理的な相互依存関係である。現象としては親が先にいて子が生じるという継時的な関係性だが、「親」「子」を概念として見ると「親があって子があり、子があって親がある」という、

〇相互依存関係になっている。「長」と「短」はもっと分かり易い。「AはBより長いが、Cよりは短い」というように「長い」と「短い」は相対的なものである。「地面と人」も空間的には人が地面に依存する一方的な共時的依存関係だが、概念としては相互依存関係である。「地面」は「人」が名付けたもの故。

〇「分析力と耐性」で言うと、「分析力」は「攻め」で、「耐性」は「守り」である。いずれかが欠けていても片手落ちになる。耐性が無いまま突っ込むのは危険であるし、分析力が無いと追及は出来ない。耐性が無いと思想ツール等の影響で分析にバイアスがかかるし、耐性だけで分析力が無いと追及は不可能。

〇「分析力と耐性のいずれかが欠けると片手落ち」というより、いずれか片方が欠けると他方も成り立たないと言った方がよいかもしれない。耐性が無いと分析にバイアスがかかる。微妙に裏権力側の思想的な影響を受けて分析・判断が偏ってくる。分析力の無い耐性は単なる対象への無関心に過ぎないと言える。

〇必要なのは、情報や知識への無関心ではなく、情報や知識を知った上で、それらと間合いを取れる能力である。「知識や情報を知る事で精神が汚染される」という考え方もあり得るが、この「汚染」とは知識や情報自体にあるというより、それらにとらわれて認知的にバイアスがかかる事にあるのだと考える。

〇「信じる」と「知る」の差である。思想ツールを「信じる」と誘導されるが、各種思想ツールを知識として「知る」事は重要である。客観的に「知る」事から主観的に「信じる」事に遷移するか否かが分かれ目と言える。前者から後者に移行しないようにする事を「間合いを取る」と表現した。それが「耐性」。

〇「知る」と「信じる」は逆の性質もある。つまり「知らない」から「信じる」のだとも言える。思想ツールの背景を知らないから、盲信する事にもなる。「知る」とは単に思想ツールの中身を知る事だけでなく、「誰が・如何なる目的で流布しているのか」など思想ツールを取り巻く諸関係を知る事も含まれる。

〇陰謀追及界隈では、ある分野では分析力のある人が、他の分野だと割と簡単に思想ツールに嵌る、という事をよく見てきた。誰しも知識に限界があるので全ての分野を知悉する事は無理であるが、見聞きする新奇な情報や知識から間合いを取れるようにしておけば、誘導される危険を減らす事が出来ると考える。

〇人は何かを信じたいもの。そこに巧妙に付け込んでくるのが裏権力の思想ツールである。「間合いを取る」とは、何事も盲信せず一旦カッコに入れて冷静に観察・考察する事とも言える。吾人が全方位的に各裏権力派閥から憎悪の対象になるのは、彼らの「信じる対象」を忖度無しで分析するからだと思われる。

〇裏権力の各派閥はそれぞれ類種的な特徴を持っている。そこを批判すれば、個人攻撃などしなくても裏権力側にダメージを与えられる。その証拠に、先に攻撃を仕掛けられない限りは個人攻撃は極力しないようにしているのに、何故か話した事も無い連中からブロックされたり一方的に恨まれたりする事が多い。

〇例えば、大東社の分析をしていたら、いつの間にか某輩に一方的に敵視されていた。それでその輩が大東社系だと露呈した訳である。グノーシス主義・大本教・ニューエイジなどついて分析したら、「グノーシス主義者」を名乗る連中から一方的に恨まれていた。両建批判をすると、こんな事は茶飯事である。

〇「耐性」は、思想ツールなど知識や情報に対してだけでなく、工作員共が向けてくる負の感情に対しても必要であろう。人から憎悪を向けられるのは、あまり気分の良い事ではないが、自分が事理に沿って正しいと思う事を言っているなら、別に気にする程の事でもない。負の感情に反応しないのも耐性である。

〇西洋の「知」は知識や理論知を積み上げて絶対的な完成に近付けようとする所に特徴があるのに対し、東洋の「知」は物事を二つの分ける(分別)「知」の性質を考察し「知」の相対性を徹底して見極めようとする所に特徴があると考える。前者は「知を徹底する知」後者は「知に囚われない知」と言えようか。

〇かかる東西の「知」の性質や方向性の違いを無視して東洋の伝統知を地中海オリエント(西洋文明の源流)の産物であるグノーシス主義と同一視する所に自称グノ一味の根本的誤謬があった。これは事理に即した分析に過ぎず何人も攻撃してないが、走狗はこういう指摘に激怒してくるという実例として挙げた。

〇西洋では中世の教会の反知性主義的な抑圧の反動か知性を絶対視する傾向が見られる。反知性主義から知性至上主義へ。何事も両極端に振れがちなのが西洋文明の傾向である。これが両建の精神的要因でもあると見る。東洋はこれと異なる。知性にも反知性にも執着しない中道が東洋の伝統知の特長だと考える。

〇当スレッドで正確性を期する為に若干修正や補足を要する箇所があるので、書いておく事にする。初代宮内庁長官の田島道治は「クェーカー教徒」と書いたが、クェーカー教徒の新渡戸稲造と無教会主義の内村鑑三の弟子である。田島がクェーカー教徒と書く資料もあるが、無教会主義の基督教徒とも言われる。

〇田島道治自身がクェーカー教徒なのか無教会主義基督教徒なのか今一つ判然としないが、いずれにしろ基督教徒である事は確かで新渡戸門下である以上はクェーカー人脈に位置付ける事が可能だと考える。新渡戸門下の田島の同門にはクェーカー教徒の前田多門やIPR(太平洋問題調査会)の鶴見祐輔らがいる。

〇もう一点。「『天皇制』は河上肇の訳語」という事について。これは正確には、コミンテルンが日本共産党に与えた「32年テーゼ」の河上肇による邦訳を元にして村田陽一というコミュニスト系の翻訳家が「絶対君主制」を「天皇制」と改めたという経緯のようである。よって「河上・村田訳」が正確である。

〇「天皇制」という言葉が史上初めて公に使われたのは、コミンテルン極東局のゲオルギー・サファロフらが作成した「31年政治テーゼ草案」とされる。これを日本語訳したのが河上や村田なのかは分からない。だが、少なくとも「天皇制」という言葉を作ったのがコミンテルンと共産党人脈なのは確かなようだ。

〇クェーカー人脈とコミンテルン人脈は接点がある。それがIPR太平洋問題調査会である。今だとCSISなどに相当する。IPRは基本的に日米の基督教人脈が運営しており、ロックフェラー系の機関と思われる。戦前にはIPRにはソ連系の赤化主義者も参加し、日中闘争や米国の対日感情悪化を策していたと言われる。

〇戦後宮中に浸透し宮内庁を押さえたクェーカー人脈と「天皇制打倒」を掲げるコミンテルン人脈が共にIPRに関係していた事にも両建が表れている。大陸で反日工作に従事した米国の宣教師も多かった。日中を衝突させて共倒れに導き、大陸の共産化と日本の軍事占領までがIPR人脈が描いた軍略だったと見る。

〇大日本帝国憲法で言う「万世一系」という近代日本の造語を有史以来に遡らせる事とソ連の造語である「天皇制」という用語を明治以前の歴史にまで遡及させる事は丁度コインの裏表だと言える。近代主義によって日本の歴史を断ずる事。左右両建の思想的な基本枠組はこれである。この枠組から微動もしない。

〇先述の32年テーゼの骨子は「日本の体制は絶対君主制+地主制+独占資本によって構成されている。日本で共産主義革命を起こすのは時期尚早である。まずはブルジョワ民主主義革命を起こせ。」というものである。これは「日本資本主義発達史講座」の認識とも一致し、後に「講座派」と呼ばれるようになる。

〇講座派は日本共産党と密接な関係があり、そのイデオロギーの根本が「32年テーゼ」である。これが日本(特に戦後)の大東社系左翼の思想に決定的な影響を与えた。講座派は1950年代まで歴史学会で圧倒的な影響力を持っていたとされる。実際には現在の大東社系左翼の思想・教義もこの枠内にあると言える。

〇講座派と対立するのが労農派である。講座派が先述の二段階革命論に立脚するのに対し、労農派は一気にプロレタリア革命を起こすという一段階革命論である。現今の大東社系左翼陣営の中で「天皇制打倒」に比重を置くタイプは講座派的で、「資本主義打倒」に比重を置くタイプは労農派的と言う事が出来る。

〇陰謀追及界では左翼の歴史(思想史・理論史を含む)はあまり言及されない傾向がある。似非保守界の安手の「コミンテルン史観」(コミンテルンの背後から目を逸らす)への抵抗が強いせいでもあろう。だが、大東社系勢力は裏権力派閥の重要な一角なので、ここを分析せねば「最後のピース」が埋まらない。

〇日本共産党が掲げる「民主連合政府」という構想は32年テーゼの基本的な発想を継承していると言える。一気に共産革命を起こすのではなく、まずは民主的と称する連合政権を樹立するという。明治政府を礼賛する日本会議系勢力も、そんな明治の「絶対君主制→天皇制」打倒を掲げた共産党も世界連邦の一角。

〇RIIA・CFR・IPR・CSISなど「シンクタンク」で「論議(謀議?)」された事が各国政府中枢に伝達されて(命令されて?)「政策」に反映されるという裏権力支配の仕組みは今も昔も変わっていないようである。昔のIPRが今はCSISに変わったに過ぎない。CFRは1921年の創設以来米国の権力中枢に盤踞している。

〇「日本資本主義論争」は「明治維新はブルジョワ革命か否か」「幕末経済はマニファクチュアか問屋制家内工業か」などマルクス主義的な理念型を日本史に当てはめるもので知性の浪費にも見える。事と理が乖離し理を実体視して優先するあたり、唯物論もまた観念論と同様にイデア主義の範疇にあると分かる。

〇「事」(具体的な事象・現象・事実)を観察し、「事」に即して「理」(法則・構造・理念的モデル等)を立てるのが筋だと思うが、「理」を優先して無理やり「事」に適用しようとすると現実認識を歪める可能性がある。空虚な理念を押し立てて固有の文化や習慣を頭ごなしに否定する発想の根にあるもの。

〇立てた「理」を体系化すると「思想」「見解」になる。人は何らかの思想や見解を持つが、それらは時に自他を死に追いやる事もあるげに恐ろしきもの。前に「見を離れる」と書いたが、何らかの思想・見解を持ちつつも、思想・見解から離れていられる(盲信や絶対視をしない事)事が自他を守る事に繋がる。

〇宗教戦争・異端審問・イデオロギー闘争・政治的な大量粛清などは全て「見にとらわれる」即ち特定の思想や見解に執着し絶対視したり盲信したりする事が主な要因だと考える。宗教・思想哲学・イデオロギー・歴史観などは全て「見」の範疇と言える。見にとらわれ過ぎる事は即ちカルト化する事とも言える。

〇「見を離れる」は「自他の見解から間合いを取る事」と書いたが、絶対視・盲信しない事であり、距離を置いて客観視する事でもある。何らかの思想や見解を正しいと思うと冷静さが失われがちである。自分の思考を客観視する視点も重要だと考える。事(事実)に照らして自分の思考に理がありやを吟味する。

〇私の考えは少し違います。儒教が「儒学」という学問として庶民層に受容されたのは江戸時代からだと考えます。戦国期の山城国一揆を見ても日本人が元来自治能力が低かった訳ではありません。また、孟子には個人の生得的な良心を「良知」と呼び民本主義的な考え方も見られます。
「日本人には、古代の朝廷が政治理念にした儒教という宗教が染み付いていると思います。
日本人には儒教があたりまえになっていて自覚すらないと思います。
儒教は墨家の兼愛を否定した宗教なので、日本人には人権意識が育たないし、儒教は民主主義とは相いれないので民主主義が育たないのだと思います。」
※カッコ内は異論者の発言。以下同様。

〇墨家の兼愛思想は「天」を人格神として崇拝する一神教的な前提がある。「天帝」の信仰を抜きに兼愛思想を語る事は出来ない。儒家の孟子は兼愛を批判したが、差別を容認するというよりは、「自分の父と他人の父を同じと見る事は出来ない」という人間の避けがたい自然な人情を認めたに過ぎないと思う。

〇事象の差異と道理の同一を同時に見極める老荘や仏教と違い兼愛の論理では、例えば自国も他国も単純に同じと見る為、この論理を突き詰めるとワンワールド思想になる。実際にフリーメイソン系人脈が墨子を持ち上げる事がある。墨家に傾倒する中華系秘密結社員の本の表紙にコンパスと定規が描かれていた。

〇日本人の儒家の受容は「儒教」という宗教ではなく「儒学」という学問の性質が強いと考える。藤原惺窩が最初の「儒者」になる前は、儒学は仏僧や公家の学者が学ぶに過ぎなかった。一般庶民に普及していたとは言い難い。また、儒学は江戸時代の庶民層の教養と思考能力の向上に貢献した面が否定出来ない。

〇「日本人に人権は分からない」と言うが、「人権の母国」とされる仏蘭西は惑沈パスポートが強行されるなど全体主義化している。個人の尊厳を守る為に「基本的人権」という概念を活用するのはよいとして、思想史的には「人権」思想を生み出した近代啓蒙思想そのものに全体主義の根があるのではないか。

〇実際、戦後に言われる「儒教の弊害」とは明治以後に作られたものだと考える。近代国家への画一的な服従を強いる為の教学として儒学が利用されたと見るべき。江戸時代の儒学にも特に朱子学などは封建教学としての側面が無かった訳ではないが、決して画一的でも無かったし、人間性尊重の思想もあった。

〇人権思想は明治時代には「天賦人権」と称され元々は基督教に由来する思想である。法的概念としての「人権」は活用するにしても、その背景にある思想的文脈には自覚的であるべきである。「山川草木悉有仏性」という言葉に象徴される日本人の平等観は西洋一神教の「絶対神の前の平等」観とは全く異なる。

〇実際に異常な速度で全体主義化していっているのは、これまで「人権」や「自由」を掲げてきた欧米の国々である。仏蘭西、英国、米国、豪州など。走狗に蹂躙されてきた日本とてこれらに比べるとまだまだ「全体主義後進国」である。人権思想をも生み出した西洋近代主義にこそ全体主義の根があると見る。

〇近代的な統一権力が存在しない所には全体主義は発生し得ない。儒学が前提とする社会制度は封建的な割拠制なので、中央集権的な近代権力とは異質である。明治以後の天皇絶対主義は儒学に由来する思想ではなく、近代主義の根底にある基督教的絶対神観念の移植と見るべきだろう。伊藤博文らが作ったもの。

〇世界に蔓延る惑沈全体主義に抗する為に憲法が保障する「基本的人権」という概念を活用しているが、人権思想の思想史的背景に無自覚な訳ではない。その事を十分に承知した上で、「人権」を実体論的概念ではなく関係論的概念として解釈し、惑沈全体主義から人間の尊厳を守るに活用しているに過ぎない。

〇人権を実体論的概念ではなく関係論的概念で解釈するとは。「天賦人権」という実体的な絶対神が付与したという基督教的な解釈ではなく、自他の関係(自分と他者、個人と国家権力の関係など)を律する道理として解釈する事と言えようか。「己の欲せざるところを他に施すなかれ」という当たり前の道理。

〇「人権の母国」仏蘭西は世界で最も全体主義化した国の一つである。惑沈パスポートによる隔離政策と統制化を推し進めている。西洋の権力者にとって「人権」とは不都合な国家を転覆させたり非西洋諸国を侵略する為の道具に過ぎない。支配する為なら「人権」の建前を簡単に捨てる。欧米は全体主義化した。

〇仏蘭西の全体主義化は「人権」思想を生み出した近代啓蒙思想とは無縁の発想であろうか?そうは思わない。国家社会を合理的に計画し設計しシステマティックに運用可能だとする近代主義の帰結だと捉える。周代の封建割拠制を想定した儒家が想像もしなかった仕組みである。考察すべきは「近代」だと思う。

〇儒学と言っても朱子学・陽明学・古義学・古文辞学など色々あった。儒学を封建教学とのみ見るのは一面的であろう。例えば、伊藤仁斎の古学は人間同士の関係に於ける人倫の道を説いた。仁斎の説はリゴリズム的に人間性を抑圧するのではなく、人間の自然な人情に基づく人間尊重の倫理思想だったと見る。

〇国学・儒学・仏学(仏教学)・老荘学・実学等々、江戸時代には様々な学問があった。特定の「○○学」に固執せずに、独立的思考を基調に即ち自分で考え、事理に適うと判断した部分を参考にすればよいのではなかろうか。個人的に「伝統的学問」という場合は、そういう漠然とした捉え方で包括している。

〇孔子の直属と仰いますが、孔子の弟子の系譜は数百年ばかり途絶えていた可能性があると思います。儒家の道統論では孔子→子思→孟子という系譜を描きますが、これは宋代以降に確立したものです。荀子の一派もいました。朱子学は多分に老荘や仏教の影響を受けていると見ます。
「朱子学の開祖に儒学の一派って言ったら怒られそうな気がするけどなぁ

儒教とキリスト教はクソさ加減がとてもよく似ている

前者は「漢教」、後者は「パウロ教」に過ぎない

開祖が聖人で、直属の弟子が権威主義と権力欲にまみれたゴミ
という点でも共通するし、

それ故に伝播定着した点でも共通する」

〇貧しくとも真面目に学問に努め若くして亡くなった顔回や乱暴な所はありつつも剛毅朴訥な性格を孔子から愛された子路に対して「ゴミ」と言うのは可哀そうな気がする。儒学が統治の手段化したのは、孔子の時代から数百年後の前漢だった。奇跡を売りにする基督教と怪力乱神を語らない儒学の差異も大きい。

〇「天」と「造物主」の違いも大きい。儒家の「天」概念は時代を経るにつれて老荘や仏教の影響を受けて理法的性質が強くなり、宋代になって「理」と同一視されるに至る。人格神としての「造物主」概念を持つ基督教に思想的構造上で近いのは、「天帝」という人格神的存在を崇めた墨家であると思われる。

〇儒家の「聖人」という概念をカトリックの殉教者らの名称に転用したのもまずかった。儒家の聖人は仁義を修めた人物や古制度を作った人物と解釈される。概念内容が全く異なるのに、同じ表記をして混同が生じる現象は、基督教の「造物主」概念に日本古来の「神(カミ)」という語を当てた事にも言える。

〇非合理的な基督教教義に批判的なヴォルテールは怪力乱神を語らない孔子の思想に共鳴したと言われる。基督教圏の住民だからこそ、儒家と基督教の違いを痛感したと思われる。故に仏蘭西啓蒙思想に儒家の合理主義の影響が無いとは言えない。啓蒙主義は基督教と同じく根が実体論だから全く異なるものだが。

〇「思いやり」を形に表したものが「礼」だという解釈もあります。内面的な心情が伴わない形式的な「礼」は否定されます。対等な関係同士でも礼儀というものがあります。要はマナーですね。
「「礼」とは、「上位者を優先して下位者は犠牲になれ」という差別思想」

〇大東社系思想との対決。礼が差別思想と言うが、差別主義者は無礼極まりないではないか。礼儀もへったくれもない。汚い言葉を投げつけるのみ。相手の尊厳を認めていないからそうなる。相手を思いやると自然と節度ある対応をするようになるのではと思う。それが「礼」などと呼ばれたのではなかろうか。

〇自称リベラルも含む差別主義者は基本的に言動が荒くて暴力的、無礼千万な連中である。力で他人を圧迫し支配しようとする。古代の礼楽思想はこうした権力政治への批判であり、権力・武力・暴力によらずに平和を作り出すという理想主義の側面があった事も見逃せない。大東社系は物の見方が一面的で困る。

〇日本が導入したのは「儒学」という学問が主で、李氏朝鮮のように社会体制や宗教を丸ごと規定する「儒教」ではありません。実際、李氏朝鮮で禁圧されていた陽明学なども盛んでした。江戸期の社会制度としては仏教の檀家制度の方が主流で、儒葬をしたのは一部の学者のみです。
「儒教がどういう社会を形成するかは中国や朝鮮半島の社会が表しています。」

〇江戸時代の日本と李氏朝鮮の違い。➀割拠制と中央集権制。➁日本の学者は武を卑しめない。尚武の気風。➂朱子学一尊か否か。寛政異学の禁は公教育にのみ適用され民間の学問は禁圧されなかった。④科挙の有無。日本は科挙が無い故に思想的統一が緩かった。試験は無くても民間学者には仕官の道があった。

〇解説。➀幕府は強力とは言え各藩の自治権が強かった。李氏朝鮮は官僚が支配権を握る中央集権制。社会の仕組みが大きく異なる。日本では儒家は「儒学」という学問の色合いが強く、朝鮮のように社会体制から習慣までをも規定する「儒教」ではなかった。儒学は学問として受容され神道・仏教と並立した。

〇②朱子学を批判した儒学者の山鹿素行は山鹿流兵学者でもあり所謂「武士道」の大成者としても知られる。戦国時代のもののふの道とは異なるが、兵法や武芸を重んじ尚武の精神がある事に変わりはない。素行は「武教小学」という書を著し、武士としての人間形成を説いた。武を卑しめる朝鮮の文官と好対照。

〇➂李氏朝鮮下では朱子学が国教的位置を占めており、朱子学以外の儒学や仏教は抑えつけられた。日本では朱子学は国教という程ではなく、せいぜい幕府の教育機関の正式科目程度の位置付けだったと言える。古学や国学も盛んで、相互に活発な論議が行われた。学術的な自由な議論が可能な知的空間があった。

〇④李氏朝鮮とは違い日本には科挙が無かった。科挙は正式な試験科目が定められているので、科目以外の思想・学問が隅に追いやられて思想的な画一化が進む弊害がある。また、科挙がないと登用のチャンスがないかと言えばそんな事は無い。学識が認められた民間学者は武家以外でも仕官する事が可能だった。

〇江戸時代の日本の儒は「儒学」であり「儒教」ではなかった。日本の葬式は仏式が主流。神道の神葬祭も珍しかった程なので、儒式の葬式は殆ど無かった。儒式で葬られたのは一部の儒学者のみである。また儒教社会特有の「宗族」という観念と制度も日本には無い。やはり日本には儒学はあっても儒教はない。

〇日本では技術者を尊敬するのも李氏朝鮮との違いと言える。科挙制度があると正規の試験科目の知識を詰め込んだ官僚が社会の最上層となり、技術者は軽視される傾向が出てくる。日本では昔から技術者に尊敬を払ってきた。儒教によって社会を形成すると、こういった態度や価値観は生まれる余地が無くなる。

〇「儒教社会」と言えるには「宗族」という社会単位の有無がメルクマールとなると思う。宗族とは父系的な血族集団とされる。日本には宗族なる概念も制度も定着していない。日本では地域の神社を中心とした地縁的な繋がりも重視された。中世の「惣」と呼ばれる自治組織はそうした地縁的な共同体だった。

〇儒教が浸透した韓国やベトナムでは宗族という仕組みが定着していると言われる。我々日本人は「宗族」と言われてもピンと来ない。これは日本には「儒教」という宗教や社会システムが無い事を意味する。勿論「儒学」に由来する考え方や道徳は存在する。だが、日本の在り方を覆い尽くすものとは言えない。

〇中世の日本で自治精神が強かったのは、血縁よりも地縁を重視する共同体が機能したからだと考える。それが「惣」であり「一揆」だったのではあるまいか。「一揆」は「反乱」というイメージがあるが、本来はメンバー同士が対等な立場で一致団結する事を意味する。儒教社会では発生し難い仕組みである。

〇「儒学は日本に影響を与えたが、限定的なものだった」というのが事実であろう。これは神道や仏教についても言える。元来日本は一つの思想で統一されるのに馴染まない。それを無理にまとめる為に基督教の代替物としての「天皇教」が作られた経緯がある。明治の天皇教は江戸の尊皇系学問とも別物だった。

〇「一つの原因から一つの結果が生じる」と決めてかかるのは危険である。実体的な原因と実体的な結果を想定する単線的な因果観は実体論の一種である。物事には複数の原因や条件があると見ておくと、思考の柔軟性を失わずに済むと思われる。関係論的な思考方法である。仏教では「縁起」などと呼ばれる。

〇「縁起」とは「因」と「縁」によって「果」が生じるという捉え方とされるが、関係論を徹底する「中論」では「因」も「果」も実体視しないので実体論的な「因果関係」自体を否定している。しかし、そこまで突き詰めると何も言えなくなるので、取り合えず「縁起」とは「縁によって起こる」と解釈される。

〇中論では「縁起」は「中道」と同義だとする。物事の複数の原因をありのままに観察するようにすれば、偏りのない中道的な見方・判断が可能になる、という意味にも解釈出来る。最初から「物事にはたった一つの(実体論的な)原因しかない」と決めつけると、物の見方や判断が偏ってくるのは確かである。

〇単線的な因果観では相互作用も説明出来ない。近代以前の関係論では仏教の縁起観や玄学(周易や老荘の学)の陰陽相待論等があるが、現代哲学では廣松哲学の四肢的構造連関が優れている。主観と客観の相互規定的な関係構造として世界を説明する。思想という主観要素だけで社会を説明するのは危険だろう。

〇やはりゼロイチ的発想に執着すると思考上の盲点を生みがちと思う。勿論、ゼロイチ的に判断しなければならない事柄もある。惑沈に関しては「断固拒否」の一択しかない。だが、歴史や社会構造の分析となるとまた違ってくる。それらは複数の原因や条件が絡まり、それぞれの原因・条件が相互作用を為す。

〇補足。儒学の「天」の概念は時代を経るごとに理法的性格を強めたと書いたが、日本では戦国時代に「天道」という思想が浸透していたとされる。所謂「おてんとうさま」という言葉は「天道」から来る。「天」に道理や筋道を意味する「道」を合わせた「天道」の概念は益々以て理法的性格が強いと言えよう。

〇戦国大名は「天道」概念で己の行動の正当性を説明する事があった由。理法的な「天道」は人格神ではないので創造主概念を立てない神道や仏教と矛盾はしない。禁教は「天道」の日本宗と「デウス」の切支丹宗の戦いと見る歴史学者もいるが、如何なものか。禁教は宗教闘争ではなく国家防衛策だったと見る。

〇雑過ぎる見方。縷々説明したように社会の構造自体が異なると言っております。日本共産党はソビエトのコミンテルン日本支部として作られたという歴史的な経緯がありますが、日本という国は儒教集団の日本支部として作られた訳ではない。喩えが不相当。
「日本共産党がソ連とは違うと言うのと似たようなもの。」

〇日本共産党はソ連のコミンテルンの日本支部として作られた。元を言えば思想的要因としては単一である。一方、日本社会は儒教という単一の思想的要因で作られた訳ではない。儒家思想が学問として広まったのは江戸時代になってからである。それ以前は僧侶や学者など一部の知識人が学んでいたに過ぎない。

〇儒学の影響が少しでもあれば日本は中韓と同じだと決めつけるのは、市場原理主義を是正する政策を全て「共産主義」と決めつける統一協会系の主張と似る乱暴さ。福沢諭吉の脱亜論とも似る。元々同じではないから脱亜もない。「東洋」は単一ではない。思想も様々ならそれぞれの社会の特色が出るのも当然。

〇韓国に基督教徒が多いのは、李氏朝鮮以来の朱子学一尊の影響があると見ている。「理」を「気」(事)と相即するものとして捉えるのではなく、「理」を過剰に優先して「理」を実体視すると一神教や西洋形而上学の発想にも近づく事になる。そういった「理先気後」思考が基督教受容の土壌になったと見る。

〇江戸時代までの日本人は「よいものはよい、よくないものはよくない」として主体的に取捨選択して取り入れる柔軟さがあったのだと思う。だが、近代以降は「0か100か」という両極端な二元論的発想が日本にも段々と侵入してきた。最近は物事の一部を見て「こうだ」と簡単に決めつける者も多く見られる。

〇両建戦術に嵌められる者が多いのもその為だろう。両建は「0か100か」という二元論的発想を前提とする。偏った両極端な二択を提示して選ばせるのが両建である。物事の一面だけを見て全部を決めつけるが如き短絡思考は両建が機能する為の大前提である。こういう短絡思考を克服しない限り両建は破れない。

〇一神教圏だと思想哲学を「これはよい、これはよくない」と取捨選択する事は困難のようだ。ある思想体系を丸ごと受け入れるか否かという選択を迫られると見る。日本でもそういう傾向が増してきたのは、一神教的思考に染まってきたからだろう。もっと柔軟に思考出来れば世の中は平和になると思うのだが。

〇理に適うと見た仏教の哲学的な部分に言及していると坊さんと間違われた事がある。そんな馬鹿な^^;論理として非常に納得の行く部分が多いので参考にしたに過ぎない。江戸時代までの日本人には当たり前だった「これはよい、これはよくない」方式は現代人には中々理解されなくなってきているようだ。

〇「体系を丸ごと受け入れるか否か」という一神教的発想が強まった近現代日本では、仏教に言及したら坊さん、国学に言及したら神道家、儒学や老荘に言及したら中国人とか言い出しかねない所がある。こういう短絡さに嘆息する。よいと思ったものを自由きままに取り入れ参考にした昔の日本人の気風を慕う。

〇「中道」を「事実と道理(事理)に沿って思考・判断する事」と定義した事があるが、「道理」には「物事は複数の原因・条件によって成り立つ」という理も含める。「物事には唯一の原因しかない」と決めてかかると、思考上の盲点を生み判断が偏りがちになる。複数の原因を想定すれば多角的に検証出来る。

〇「複数の原因を想定する」と言っても、主要な原因と副次的な原因を見極める事も重要である。複数の原因の中で結果に及ぼす影響の大きさの大小はあり得るし、複数の原因のそれぞれが結果に対して等しい影響を持つ場合もあり得る。後者の場合は原因同士が対等で主要な原因と副次的な原因が区別されない。

〇我々は一般的に複数ある原因の中から決定的な影響を及ぼす主原因を取り出して「これが原因」と判断する概念的操作を無意識の内にしている。つまり因果の範疇を適用する事。この事に自覚的でないと「物事にはただ一つの原因しかない」「単一の原因から単一の結果が生じる」という臆見に陥る危険がある。

〇「因果」という範疇(カテゴリ)は実体として存在するような気がするが、あくまで認識者の概念的操作の結果としてそうなっているだけで、「因」も「果」も概念に過ぎず、単独で存在する実体ではないとする見方もある。ここまで突き詰めると究極的には「因果」のカテゴリの形而上学的性質が暴露される。

〇我々は「因果」というものが現実に実体として存在すると思っているが、突き詰めると「因果」とは現象を認識する為の概念的な形式に過ぎない事が露呈してくる。その事を踏まえた上で「因果」という範疇を用いると、「これが絶対的な原因だ」と執着する事無く先入観無しに冷静に原因を観察出来ると思う。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1452756997900693504


(了)

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抜粋終わり

>「体系を丸ごと受け入れるか否か」という一神教的発想が強まった近現代日本では、仏教に言及したら坊さん、国学に言及したら神道家、儒学や老荘に言及したら中国人とか言い出しかねない所がある。こういう短絡さに嘆息する。よいと思ったものを自由きままに取り入れ参考にした昔の日本人の気風を慕う。

同感。

真理は、人間の「智慧」に把握し切れない。

てのが、日本人・・東洋人の、ベースにあったと思う。


>両建戦術に嵌められる者が多いのもその為だろう。両建は「0か100か」という二元論的発想を前提とする。偏った両極端な二択を提示して選ばせるのが両建である。物事の一面だけを見て全部を決めつけるが如き短絡思考は両建が機能する為の大前提である。こういう短絡思考を克服しない限り両建は破れない。


決めつけず、とらわれず、中正なる道を行く。

と論語だったか。

良い言葉と思う。




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