日本の仏式葬儀に仁・慈悲はあるのか。


一応は「仏教びいき」だけど、正味日本の葬儀に疑念を持っている。

湿っぽいのは構わん。


でも、何故に「泣いてはダメ」「礼儀作法を聴いてはいけない」

のか。

伝習録で王陽明が「親が泣いたときは、泣きなさい。それが「楽」ってもんだ」と言い、また自身も父親の死に際して号泣して、周囲や弟子にたしなめられても悲しみ続けた。

論語で孔子が魯国の廟堂に参ったときに、わざわざいちいちを先輩に聴いていた。それは「聴くこと・その無様さよりも、礼儀を誤らないのが一番大事」ってことで。


日本の葬式はそれなりに「礼儀作法」を決めているけど、あまりそのことを家庭でも塾・学校でも教えない。

のに、いきなり葬儀の現場で、それを出来るか?って出来るはずもない。


また、愚生のように発達障害や他の障碍で「うまくできない人」も居れば、他国の人や、他国のアイデンティティの由来の人も多くいる。

のに、そんな「密教の修法」みたいに出来るはずもない。


まさに、「出来もしないことを強制して、処罰する」ってことで、「それを虐待と言う」{論語}で、仏法の慈悲とも無縁である。


それは葬儀を「慈悲・仁」で行う以上に「世間体の誤魔化しと、見栄」でしているからで、昨今の「お寒い家族関係」の顕現でもあり、そういう「形式だけで、仁も慈悲も薄い葬儀をしてた糞坊主のおかげ」とも言いえるかもしれない。


「葬儀で悲しむ」は仁の表れの一つで、これも仏道の慈悲の端緒で、それへの入り口にもなる。

「礼儀作法を質問する」は、これは礼の表れにして、仏道の学問へのきっかけにもなる。


その「端緒」をお粗末にして、形だけの「葬儀」を見栄と傲慢で行っているのだから、世の中も衰亡するし、坊主も馬鹿にされ、敬遠されてきたのも所以無きことではないだろう。


台湾や香港の騒がしい葬儀をみていると、むしろそっちの方が素直で、まっとうな感情と倫理観が生きているように思う。



まあ極端とも思うが、逆の意味で現在の日本は極端だからね・・

まあ日本の葬儀で「泣いてはいけない」は、戦前戦中の「天皇陛下のために死んだのだ。喜べ」という「天皇」というカルト宗教の汚染の影響が極めてつよい。


もう「日本の仏教」は、「天皇」から早く卒業しないと、人倫・自然とも乖離して、天皇ともども世界・自然からたたき潰されるのは、明らかである。




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