まずは「天皇日本」を滅ぼして、日本人の国を作ろう。


自他境界が曖昧だと、自分の限界を引く基準を「自分自身の体力、体調・精神力」ではなく、「会社や上司が求める労働時間、仕事量」という現実の自分を無視したモノサシを基準にしてしまう傾向が強くなります。

そもそも、日本では「みんなのため」と称して、小学生から、この「現実の自分を無視したモノサシを基準」にした行動を、幼児から叩き込まれる。

それに適応できないと「いじめ」で殺したり、良くとも不登校になって学校~社会から逃げるしかなくなる。


そもそも「天皇国」は、人間など求めてない。「肉ロボット」と奴隷しか、日本人は要らないのだ。

それに適応すべく、教育があり、なんと思想・学術もそう明治以降作られている。



天皇のこの日本人への侮辱も、明治以降の先代や維新志士の過ちへの「ボヤキ」とも言いえるが、裕仁に責任が無いわけではない。


その「奴隷精神」を強化するために、戦後の教育も巧みに「毒」を忍ばせ、日本人の大半が「人型羊」になった。

学校にいくと、死んでしまう。

なんせ学校での事故の大部分は、学校・教師が責任を取らん。

体罰や無理な指導で、重篤な障害を負っても、責任はいっさい取らん。


まあ、そもそも天皇家が「統治の責任を取らん」ってのに適応した教育だよね。


さらに

どうしてこういう理路になるのか2日ほど考えている「信田 …ある団塊世代の哲学者の方と話したときに、彼が「家族って自我の延長でしょ」って言ったんですよ。私は、え?と思って。すごい言葉じゃないですか。
すると、そこにいる男性たちが「そうだよね」って頷いたんです」 https://t.co/3o3gT04r2Whttps://t.co/lLLPSmfien
>「家族と言えど他人(他者)」と云う発想がナチュラルに理解出来ないおっさん連中は腐る程居る。だから家族の他の構成員(特に女子供)が自分の意のままにならないと、
当たり前の様にキレたりする。個我が家族内に埋め込まれていて切り離せないのだ。「国家無くして個人無し」なんて言う人達と一緒。

こういう幼稚さは、明治以降の日本に強固になっている。

それを強化するための「部活動・体育会系」で、体罰と虐待の容認であったのは間違いない。
「礼儀作法を覚える」とかいうが「礼に適ってない法で礼を教える」ってことで、孔子が聞いたら「評価に値しない」っていうか「ああ、あの人たちか」って無視するだろう。

普通の日本人」と云う表現に特徴的だけど、彼等は他者に自分の欲望を押し付ける時でも、「これは私が望んでいることであり、私自身の欲望だ」と(ニュルンベルク裁判の時のヒムラーの様に)認めたりはしない。「それが普通のことだからだ」と、世間一般で言われている「普通」の権威に訴えたがる。
ラカン風に言うなら、「これは私自身が勝手に望んでいることではなく、大文字の他者が望んでいることなのだ」、カント風に言えば「これこそがそれ以上根拠を遡ることの出来ない定言命法だ」と言いたがる。
(無論彼等は根拠を遡る様なまどろっこしい真似はしない、最初から「これが最終的な命令だ」と言い、それ以外の可能性はそもそも思い付きもしない。)
彼等は「自分は普通だ」と云うことに自らのアイデンティティを賭けている。逆に言えば、「自分は『普通でないもの』『おかしなもの』ではない」と云う否定命題によって自己を肯定している。
だから「普通でないもの」「おかしなもの」、即ち自分の考える「普通」とは異なるものが自らの存在を主張し始めると、彼等はそれを自分に対する攻撃と受け止める。独立した自由な他者は、存在自体が脅威なのだ。
>これが国家レヴェルの話になると帝国主義や植民地主義になる。
他者を支配するだけでなく、場合に依っては絶滅まで追い込まなければ気が済まないと云う偏執的な狂気が生まれて来る。そこから、自分達の思い通りに動いてくれない他者を悉く悪魔化する必要性が出て来る。
その為にどれだけ現実像が歪められようと問題ではない。何が確固たる現実であり、
世界の為に何が善なのかを知っているのは「私達」であり、「彼等」ではないのだ。
「子供の持ち物を勝手に捨ててしまうお母さん」程度の話であれば、大抵は後で笑い話に出来るかも知れない。だけど「彼等の為に何が善なのかを知っているのは、彼等自身よりも私達の方なのだ」と云う思い込みは、時にジェノサイドにまで発展する。

この手の「精神障碍者」が、日本では「健常者」とされる。


まあ、天皇陛下の御意ですはな。

「世界中が狂ってしまえば、もう打つ手がない」って列子。

まあ、日本中が狂ってしまえば、国内では、打つ手がない。

いっそ、中ロか北朝鮮に、江戸城に核兵器をぶち込んでもらって、「天皇」という発狂の根源を断たないと、日本人に明日は無いだろうね。

真子さんはその辺がよくわかっているのか、天皇家と絶縁した。偉いかもね。

共生関係とは、
辛い時には辛い感情を共有し合える
たとえ間違っても許し合える
お互いに違う意見や気持ちでも、認め合える
共生関係では、お互いに相手のことを、自分とは異なる一人の人間として尊重し合えます。
しかし、自他境界を上手く引けない人は、人間関係を「主従関係」と捉えている傾向が強いようです。
主従関係とは、
上の人間の意に沿わなければ、罰を受ける
上の人間の意向には絶対に従わなければならない
下の人間は、上の人間に都合の悪い意見や気持ちを持ってはいけない
·主従関係の特徴は、物理的にも精神的にも、一方が従う側に徹する関係だということです。


思うに、
光武帝と建武二十八将伝

より

優れた将軍は兵と同じ待遇でなければならないとされる。食事も兵士と同じでなくてはならず、すべての兵士が休むまで休んではならないのだ。そしてその通りに、皇帝でありながら兵士と同じく自ら武器を取って戦ったのが劉秀である。皇帝であるよりもまず将軍として生きた劉秀は、平等であることこそが人の能力を最大に発揮できることを知っていたのである。

人間の平等こそが、人間の力を最大限に発揮させるし、

祭遵は、もともと光武帝のもとで軍紀の粛清係をつとめていた。将軍としてもその軍紀の厳しさは最高であった。
 しかし、ただ厳しかっただけではない。
 祭遵は光武帝の信頼が厚く、しばしば特別に賞与を与えられていた。しかし、給与も報償もすべて兵士に与えたので、私財がまるでなかったという。
人にもし立派な振る舞いをさせたいのなら、まず立派な人物として扱い、立派な人物であるという自覚を与えることである。相手を悪人であると見なして応対すれば、相手は悪人として振る舞うし、有能な人として応対すれば有能に振る舞う──これは心理学でいうピグマリオン効果として知られているものであり、集団に対したとき明確にあらわれる効果である。
 すなわち、祭遵は兵士を立派な士人として扱うことにより、兵士に志と自覚を与えその質を高めたと考えられるのである。だからこそ、祭遵の指揮がなくとも自らの意志をもって戦うことができたのであろう。

主従関係は、ほぼ「従」を馬鹿にし軽んじる。

馬鹿にされたら馬鹿にされた程度しか人間はまずならない。


で、それの連続で、どんどん明治以降日本人は「天皇陛下の思惑通り」に愚劣な「羊」になった。


でも劉秀さんは偉いね~。なかなか「対等の人間関係」って貫徹できないし、それも「帝国の行政」と「軍事」でもできるものではないしね。



天皇の無い 蒼い空を取り戻す




















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