メンヘラの生き残りのための兵法・漢籍 伝習録より 努力の仕方の肝心を一つ。
伝習録 下 43
諸君が功夫をすすめる上で絶対に避けるべきことは、「助長」である。
だいたい上智の人などほとんど皆無に近いのであって、まして学ぶものが、一足とびに聖人の域に入ることなどありえない。
起き上がったり転んだり、進んだり退いたりするものが、功夫にとってむしろ自然な在り方で、このような紆余曲折は避けられないものなのだ。
昨日ちゃんと功夫をつとめたのに、今日はそれを十全に発揮できないということで、何が何でも無理に、その破綻のさまをとりつくろおうとするなど、それは無駄な事なのだ。そのようにする、それが「助長」なのであり、そんなことでは、せっかくの前日の功夫まで全部だめにしてしまう。これは決して小さな誤りではない。
たとえば、道を行く人が、もしけつまずいて転んだら、起き上がってまたあるけばよい事で、転倒しなかった振りをして人を欺く必要はない。
諸君は、常に「世に埋もれていても、悶えることなく、自己の正しさが認められなくても悶えることのない」そういう心を抱き続けるべきである。
この良知にもとづき、粘り強く実行していき、人に非難嘲笑されようと、誹謗されようと、称賛されまた侮辱されようと、いっさいそれに動ずることなく、一進一退があればあったでそのまま功夫をつづけていくがよい。何よりもこの良知を発揮する事、ここにこそ自己の存亡をかけていったらなら、
長い間には必ず、自然と悟るところもあり、世上のどのような事柄にも動かされることがなくなる。
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人がもし着実に功夫をつんでいたら、人の誹謗や侮辱にあおうとも、その一つ一つが益になり、一つ一つが徳を高めるたすけともなる。が、功夫をつまなかったら、それはただの魔でしかなく、結局はそれに振り回されひきたおされるだろう。
{出典 伝習録 中公クラッシクス・溝口雄三 訳}
私の注
・「功夫」 ~ 努力の事。主に精神的なことや道徳的な事の努力になる
・「助長」
余計な手を加えて、損ねてしまうこと。
個人的にはこれも思い出した。
諸葛孔明の甥への訓戒
戒外甥書
>屈伸を忍び、細砕を去り、咨問を広め、嫌吝を除かしむれば、何ぞ美趣を損ぜん。何ぞ済らざるを患えん。
人に腰を下げ・小さなわだかまりを去り、いろいろと助言を聴いて考えを広め、好き嫌いで人を判断することが無ければ、どうして、自分の尊厳や誇りを損ねることがあるのだろうか。
{何も出来ない}などと煩わされることなど無いのだ。。
私は、正直、この言葉を頼りに、生きてきた・・・そのような気がする・・・。
何もできなかった・・なんせまともに働けないからな・・だが、自分の尊厳を踏みつけにされることも無く、まがりなりにも周囲の人たちを、傷つけず家族を一人も失わなかった。。。
努力にもならんが、
てなれたら、、、いいよな・・・