仏法は、中道也。愛も憎しみも怒りもエロも否定もし無いし執着しない・・て難しいは本当に。



より

自分が苦しまないためにどうするかが大事だと思います。
まず怒りや無力感、その他さまざまな感情がおきるのは、生物として
危機にあっているのですから、原始的な反応として自然なことです。
つまり危機に臨んでその感情をおこして、対応しようとしているのです。
ちょっと違うかもしれませんが、単純に考えると
怒りは攻撃 
恨みは逃げる
悲しみや無力感はフリーズ
かなと思います。
これら、すべて自分を守るための感情であり、その時の適切な行動です。
ただ物事は時々刻々と変化します。諸行無常です。
その時は必要でも、状況がかわっているのに、そのままの感情で膠着していては自分が苦しいままで、次の適切な行動がとれません。
(膠着状態が必要なときもあるので、なんでも早く楽になればよいということではありません)

これって、まったくもって正しいわけで。

必要だから、怒りとか憎しみ・絶望って感情が発動する。

でもそれが、延々と有効なわけがない。

ので、諸行無常で、執着しない・・てなる。

王陽明が「怒りは否定しないが、それに固着するのが、ダメになる」みたいなことを言っているし、

かのダライラマのおっさんが「不動尊の怒りが大事」ってのも、肯定的な意味での「執着はいけないが、その感情自体は大切」ってことで。





丹波高山寺の和尚さんがいうのも似た面がある。

「恨むな」とか被害者に言っても「恨む」くらいにその被害から学習して対応策{この場合は報復もあり得る}を取らないと、その被害者は死んでしまうだけ。



まあ「加害者予備軍」や加害者には、それをとどめるのには「恨むな」ってのは間違いではない。

この辺は「怨は直をもって報いる」って孔子の流儀が、まずは第一のベターな選択でしょう。

でも、それって難しいよね・

「仏法は深遠」といわれ、儒学も「道心は微妙」っていうのはそうことなのでしょうが、

「それを軽々とやり遂げるのが賢者で、それを地道に実践していくのが、君子なのだよ」

て王陽明の言葉で、終わっておきます。

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