仏法は、中道也。愛も憎しみも怒りもエロも否定もし無いし執着しない・・て難しいは本当に。
より
これって、まったくもって正しいわけで。
必要だから、怒りとか憎しみ・絶望って感情が発動する。
でもそれが、延々と有効なわけがない。
ので、諸行無常で、執着しない・・てなる。
王陽明が「怒りは否定しないが、それに固着するのが、ダメになる」みたいなことを言っているし、
かのダライラマのおっさんが「不動尊の怒りが大事」ってのも、肯定的な意味での「執着はいけないが、その感情自体は大切」ってことで。
丹波高山寺の和尚さんがいうのも似た面がある。
「恨むな」とか被害者に言っても「恨む」くらいにその被害から学習して対応策{この場合は報復もあり得る}を取らないと、その被害者は死んでしまうだけ。
まあ「加害者予備軍」や加害者には、それをとどめるのには「恨むな」ってのは間違いではない。
この辺は「怨は直をもって報いる」って孔子の流儀が、まずは第一のベターな選択でしょう。
でも、それって難しいよね・
「仏法は深遠」といわれ、儒学も「道心は微妙」っていうのはそうことなのでしょうが、
「それを軽々とやり遂げるのが賢者で、それを地道に実践していくのが、君子なのだよ」
て王陽明の言葉で、終わっておきます。
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