家族のために、出世を捨てようとしました。


家康は、三河で自立して、今川と断交するのだけど。

それで徳川家臣や家康の親族が、今川の駿府で処刑される。


まあ、戦国の世ってそんなものだろうが。戦後も、これほどではないけど・・「部活未亡人」とか「夫元気で留守がいい」とか・・いびつ・・

でも、そうでもないとんでもない人が、もっとに昔いたね・・


 劉秀は将軍たちと薊から帰り、范陽を過ぎると、命じて兵士たちの死体を葬らせた。范陽は劉秀の生涯唯一の敗戦の地であり、進軍のため遺体も十分に回収されていなかったのである。
 これは相当に異例の行為である。当時の戦争では、遺体が回収されるのは指揮官クラスのみで雑兵はそのまま戦場に打ち捨てられ、運が良ければ近隣の住民に埋葬されるだけである。ところが劉秀は遺体を一つ残らず埋葬しようとしたようだ。
 当時の劉秀軍の兵力の大部分は銅馬兵であるから、この遺体もほとんどが銅馬兵と考えられる。おそらく劉秀は、自分が武装を解いて銅馬軍に入り、命を助けることを約束したのに、死地に追いやることになったことに責任を感じていたのだと考えられる。もしかすると、銅馬の中に入ったとき命を助けることだけでなく、「将来必ず故郷に帰れるようにしてやる、それも家族と共にだ!」といった約束までしたのかもしれない。戦いが終わり勝利の高揚の中でも劉秀は、自分は約束を破ったのだという認識だったのだろう。
 しかもこれを将軍や兵士たちが、勝利に沸き劉秀を皇帝しようというムードの中で行った。すなわち「ここで死んだ数万人の仲間たちは、俺の作戦ミスで死んだんだぞ。それでもおまえたちは俺に皇帝になれというのか?」という、問いかけでもあったようだ。

光武帝即位
 建武元年六月己未(西暦25年8月5日)、劉秀は皇帝に即位した。
 柴を燃やして天に告げ、身を清めて六宗を祭り、群神を待ち望んだ。その祝文にいう。
「皇天の上帝、后土の大いなる神よ、目をかけて命を降し、秀に多くの民を属させ、人の父母となすも、秀あえてあたりませんでした。配下の諸侯も、謀らずして同じこと述べ、あるいはいいいます。『王莽が位を盗み、秀は発憤して兵を興し、王尋、王邑を昆陽に破り、王郎、銅馬を河北に誅し、天下を平定し、世界はその恩恵に預かりました。上は天地の心にあたり、下は民の帰す所となります』。予言書にもいう『劉秀を兵を発して道に捕らえずば、卯金が徳を修めて天子となる』。秀はなお固辞し、二度、三度に及びました。臣下は声をそろえていいました。『皇天の大命は止めておくことはできません』。ここに敢えて恐れずに承ります」
 ここにおいて、元号を建武とし、天下に大赦し、鄗を高邑と改めた。
 興味深いのは劉秀がここまで何度も即位について拒絶していることである。これはただのポーズではない。いわゆる儀式として謙譲の心を見せる場合は、同じ場所での一連のやりとりであるからだ。
 河北に来た当初の更始元年十二月の鄴での鄧禹の発言に始まり、柏人で朱祜、邯鄲で銚期と耿弇、浚靡で馬武、中山で多数の家臣の連名で、常山の南平棘で耿純、常山の鄗で馮異が皇帝になるように進言している。すなわち時間と場所を変えて二年足らずの間に8回も皇帝になるように頼まれ、うやむやにし続けてきたのだ。こんな人物は歴史上に劉秀以外にいないだろう。そして9回目、彊華が予言書を持ってきて初めて皇帝に即位したのである。
 劉秀がどれほど人の上に立つことを望まない人物であるかがよくわかる。
 これは戦略的に計算されたものではない。我々は『三国志』や楚漢の戦いのイメージがあるため、皇帝とは天下を統一して、あるいは統一のめどがついてからなるものだという誤解を持ちやすい。しかしこの時代には、皇帝になってから領土を広げるのが普通である。自分の領土を得るために皇帝となり、領土拡張への正統性を確保するのである。王郎、公孫述、劉永などすべてまず皇帝に即位し、皇帝の名のもとに対立する敵を降伏させるのであり、実際にそれに成功している。皇帝になれば、相手は降伏しやすくなるのだ。
 すなわち劉秀が皇帝にならなかったことは、戦略的に誤りなのである。
だからこそ馬武は、俺たちの討伐戦には正統性がないと嘆いていたのである。
 劉秀が皇帝にならなかった最大の理由は、故郷に残した家族、特に妻の陰麗華の問題であった。皇帝に即位することは更始帝の勢力下に残った陰麗華を見捨ててその命を危険にさらすことであるからだ。劉秀は陰麗華を想い皇帝になることを拒否したが、正直にそう語ることはできなかった。なぜなら、劉秀の元に馳せ参じた家臣には、妻子を捨て見殺しにして劉秀の部下になったものも多くいるからである。
 この劉秀の考えが変わったのは、鄧晨の甥である鄧奉が兵力を集めて、陰麗華と陰一族を保護したことと、更始帝政権と赤眉軍の戦闘が激化したためである。陰一族を処罰する余裕も無くなったのを見極めて、劉秀は皇帝に即位したというわけなのである。


面白いね。



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