神秘を語らないのが、密教か。
密教というと「神秘体験」というイメージがありますが、御宗祖大師の著には神秘体験的なことはほぼ記されていません
— 丹波 高山寺🍁祐弘 (@Tanba_Kosanji) May 12, 2022
(せいぜい求聞持法成就での明星云々であり、それすら入唐前の話)
何故だろうかと思っていたのですが、先日の大日経講伝でなんとなくですが、その理由が見えてきたように思います
— 丹波 高山寺🍁祐弘 (@Tanba_Kosanji) May 12, 2022
もっともそれは御宗祖ほどの境地に、至った上での話とのことですがね
— 丹波 高山寺🍁祐弘 (@Tanba_Kosanji) May 12, 2022
御宗祖が神秘的体験をほぼお語りになられていないのは、
— 丹波 高山寺🍁祐弘 (@Tanba_Kosanji) May 13, 2022
密教は前提として、顕教による空観があってのことですから、否定して、否定して、否定して……否定した上での肯定です
法悦とも思える神秘的体験すら、空観の対象です
ですから「密教は煩悩や現世の肯定」のみに飛びついてしまい、通俗的な「この世は美しい」「生命は素晴らしい」という言説に結びつけると、甚だ危ういんですね
— 丹波 高山寺🍁祐弘 (@Tanba_Kosanji) May 13, 2022
この辺は、大事だよ。
密教は、神秘主義って言うよりも神秘すら超えるのが、肝心だと思う。
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