何故に、バチカン教・プロテスタンやその派生とかが危険なのか。=生贄が無いと存在できないから。
天王は「時の引出物」を与えて一々本地へ送り返すのである。病人の側からすれば疫病からの解放=本復である。身体=共同体からの払いであろう。牛頭天王は早くから本地は薬師仏とみなされ「病即消滅之薬王」とされた。衆生の悪心を知り、病苦を与えて折伏の慈悲を施すという。
— なかだち⛰️ネット難民📡 (@madaraiguana) October 13, 2019
疫病の夢を覚まして本地へ還すのが役割なのである。おろそかにすれば祟りのある恐るべき障礙の神であると同時に病から人々を救う、頼り甲斐のある神なのである。」
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「荒ぶるスサノオのような神であると同時に三宝を守護する神でもあるというわけだ。法性と無明、善と悪、光と闇、などの相反する要素を合わせ持つ両義的神であった。」
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— なかだち⛰️ネット難民📡 (@madaraiguana) March 2, 2021
>人身御供という淫祇邪教・耶蘇教がみんなほんと好きね
現代まで残っている論考した耶蘇教以外の宗教というのは人身御供とその性質について徹底的に論考したから残っているんだよ、耶蘇教は除くけど
誰かが犠牲になってできた救済なんてあるわけねーだろ
— なかだち⛰️ネット難民📡 (@madaraiguana) March 2, 2021
形而上は自分が作った創造物を玩具にせんぞ
やたら、カトリック・プロテスタンが、戦争好きなのは、この「人身御供という淫祇邪教・耶蘇教」てことだからか・・
正教系は「犠牲になどなってない。死をもぶっ殺した=克服した からだ。」ってなる。
しかし、ハリストスは罪だけではなく、私たちのすべてを引き受けて十字架にかかったことを見落としてはなりません。
では、正教会の教える「救い」とは何でしょうか。
「罪」が「あるべき姿を失う」ことであるなら、「救い」とはそれを取り戻すことです。
「罪」が神との分離、神の像の破損であるなら、「救い」とは神との一致であり、神の像の回復です。
「罪」が悪魔、苦難、死と一つのものなら、「救い」とは悪魔の敗北、苦難の終結、死の死滅です。
これらすべてを、私たちのためになさったのが、人となった神ハリストスの十字架と復活です。
神が私だちと同じ人間になったという「籍身」によって、すでに私だちと神との一致の道が開かれました。完全な神の像であるハリストスによって、私たちの神の像は回復されます。
そして私たちがどうしても通らなければならない死という究極の不条理を、ハリストスはご自分の死と復活によって、敗北させました。
だから、カトリック・新教は、自分らのために、多くの他宗旨の人間・時には自分らの中の弱い立場の人を殺しまくって「救済」なり「ご利益」を求める。て感じる
まあ、カトリック・新教は、カルトみたいなもんだは。
で「神道は教えがない」とはネット嘯いている、神道の似非学者がいるが。
明治以降は「生贄教」のカトリック・新教を、その「神道」の教えにした・・{元が無いのだから、なんでも理屈つけて教えなりにできる}ってのだから、日本が滅びるのも、天皇根絶ない限りに順当なのです
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みに富む社会になりますように
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