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考えたら、発狂的だよな、光武帝て。でも発狂してる位でないと理想も人道も為しえないって面もある。

人の貴さは天の定め、法は万人に平等なり
 劉秀が統一後に目指した世界とはどんなものだったか。
 その姿は統一前から少しずつ政策に現れていた。まずは奴婢の解放令である。
 建武二年(西暦26年)五月。嫁に出した娘、売られた子どもで親元に帰りたい者は、すべてその願い通りとし、それを拒否する者は法律によって処罰する。
 建武六年(西暦30年)十一月。王莽の時代の下級役人や民衆で罪に問われて奴婢となった者で、漢の時代の法律によるものでないものは免じて庶人とする。
 建武七年(西暦31年)。下級役人や民衆で飢饉や戦乱に遭ったもの、青州、徐州で賊によりさらわれて奴婢や妻とされた者、去りたい者も残りたい者、自由にすべてその願い通りとし、それを拒否する者には売人法を適用する。
 建武十二年(西暦36年)三月。隴や蜀でさらわれて奴婢とされた者で、自ら訴え出たもの、判決が出ていない者(及獄官未報)とすべて庶人とする。
 建武十三年(西暦37年)十二月。益州で建武八年以降にさらわれて奴婢となった者は庶人とする。また身を売って他人の妻となったもので去りたいものはすべてこれを聞き入れよ。敢えて引き留める者は、青州、徐州同様に略人法を適用する。
 建武十四年(西暦38年)十二月。益州、涼州で建武八年以降に申告した奴婢は、裁判なしで庶人とし、売った者は代金を返さなくてよいとした。奴婢の多くは、夫が妻子を売るケースが多いのだが、そのとき夫は代金を返さなくても妻子を取り戻せるということである。
 何度も出しているのは、効果がないからではなく、新しく敵地を平定するたびに解放令を出しているためである。あくまでもそのときの解放令であるから、自国領でしか無意味だからである。
 また文面に出てくる売人法と略人法は、劉秀の時代に創設された法律であるとされる。売人法は人を売ることの罪を決めた法律であり、略人法とは人をさらったときの罪を決めた法律である。
 この時代の民間の奴婢の多くは、貧乏であるために妻や子を売るケースと、戦争で女や子どもを略奪してそのまま妻や奴婢にするケースである。そこで劉秀は、人身売買についての「売人法」を制定し、人さらいについての「略人法」を制定した。二つの奴婢の成立状況を狙い打ちにした法律を制定したのである。
 さらに劉秀は歴史的にも驚くべき宣言を行う。
 
 建武十一年春二月己卯(西暦35年3月6日)
「この天の地の性質として、人であるから貴いのである。故に殺したのが奴隷でもその罪を減らすことはできない。(天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。)」
 
 という詔書を発行し、法律の改革を進めた。人が貴い存在であることは、天地、すなわちこの宇宙自体が持つ自然の性質、言うなれば重力のように誰にも変えられない天与のものとし、貴さの起源が人間存在にある以上、貴族も良民も奴婢も貴さは同じであり、同じ刑法が適用されるのだ、というのである。現代の人権天賦説に近いものと言えよう。この言葉は中国における人権宣言として、アメリカの独立宣言にある「人はみな平等に造られている(All men are created equal.)」に相当するものとして注目されている。
 劉秀はこの年に、不平等だった法律を具体的に一つ一つ排除を進めている。春二月、
「あえて奴婢に焼き印したものは、法律の通りに処罰し、その焼き印された者を庶人となす」
 冬十月には、奴婢が弓を射て人を傷つけたときに死刑となる法律を削除した。
 「天地之性人為貴」という言葉自体は『孝経』からの引用であり、曽子の質問に孔子が答えた言葉である。こうした昔から知られた理想を示す言葉、悪く言えば建前だけの空言に、実のある改革を付け加えることで、実際に意味のあるものにしてしまうところに劉秀のすごさがある。聖典に根拠を置くことで誰にも反論できなくしてしまうのである。
 これら一連の詔書は多くの人を驚かせ、感嘆させた。代表的な人物が次の次の代の皇帝である章帝の時代に宰相になる若き俊才第五倫である。第五倫は詔書を読むたびに「この方こそ真に聖主である、何が何でもお会いしたいものだ」と嘆息した。この発言に同僚たちは失笑して、「君は上司の将軍すら説得できないくせに、万乗の陛下を動かせるわけがない」とバカにしたが、「いまだ私を知る者に会うことなく、行く道が違うからだ」と答えた。
 第五倫は、劉秀を志と理想を同じくする同志であると考えていたことがわかる。周囲に自らの理想を理解する者もなく孤高に生きていた第五倫は、何と遙か天上の同じ世界を夢見る同志を見つけたのである。
 奴婢の法的立場は大きく改善された。例を挙げよう。皇帝の側近である常侍の樊豊の妻が自分の家の婢を殺す事件が起こった。洛陽の県令祝良は遙か上の権力者である樊豊の妻を捕まえて死刑にしたのである。
 あるいは県令の子どもが奴と弩で遊んでいたところ、奴が誤って子どもを射て殺してしまう事件があったが、事故としてお咎めなしとされた。奴婢と良民の法律上の平等が守られていたのである。そのため奴婢に対する偏見も少なくなっていた。後漢の第六代皇帝安帝の母は婢であったほどである。
 劉秀は奴婢という制度をなくしたわけではない。しかし前漢の頃、奴婢は奴隷として市場で公然と競売にかけて売られていたが、どうやら後漢では人身売買は禁止されたようである。
 人身売買の禁止は既に王莽が一度挑戦し、混乱の中で挫折し、法令を撤回している。このときの王莽の人身売買禁止の詔から当時の状況が推察できる。王莽は、秦王朝は人間を牛馬と同じように平然と市場で売買する無道な政府であったと非難し、奴婢を私属と名称を変えて売買を禁止すると宣言しているのである。
 このことは秦では人身売買は完全に合法であったこと、前漢でも人身売買が行われていたこと、しかし秦を無道と非難し、前漢について述べないことから、前漢では人身売買は禁止されていたが、武帝以降の貧富の差の拡大と共に、法律が有名無実となり、半ば公然と売買されるようになったと考えられるのだ。
 劉秀はここで再度法律を引き締め、法律の厳密な運用を行った。
 その結果、後漢の奴婢は戦争捕虜や犯罪者として官奴婢になったものと、それが民間に下げ渡されたもののみとなったのである。奴婢の多くは功績を立てた家臣への賞与として、あるいは公官庁に働く役人のために支給されるものが多かったようだ。宮崎市定は奴婢は終身懲役刑であるとしているが、まさに正しい理解である。
 後漢王朝では奴婢の売買に関する記録が残っていない。後漢の戸籍には奴婢の値段が書かれるが、これはもちろん購入価格ではなく、資産税のための公定価格が記入されているに過ぎず、人身売買の存在を示すものではない。
 奴婢の人権を宣言した翌年、後漢の著名な学者鄭興が密かに奴婢を買ったことが発覚して処罰されたと記録される。朱暉伝には、南陽太守阮況が郡の役人である朱暉から婢を買おうとして拒絶される話がある。これらも公的に売買が禁止されていたとすれば理解しやすい。
 後漢では人身売買の代わりに庸という、賃金労働が広まっていた。貧しくなると身を売るのではなく、平民のまま他の家の労働をするようになったのである。より穏当な経済体制になっていたことがわかる。
 それでもなお困窮した者は、戸籍を捨てて流民になった。商人、手工業、芸人などで暮らすようになったのである。後漢は、前漢に比べても顕著に流民の記録が多い。ところがそれが赤眉の乱のような反乱に至るものは多くなかった。生産力が大幅に向上していた後漢では、農業をしなくてもある程度食べていくことができたとわかる。後漢の時代、朝廷からは数年の一度のペースで流民に対して戸籍登録と農地の提供を呼びかけているが、いっこうに流民は減る様子がなかった。郷里に帰らず今いる現地で良いとし、土地も用意すると譲歩しても、流民たちは農民に戻ろうとしなかった。彼らは農地を失ったというより積極的に農地を捨てた、農民でない新しい階層の人々とわかる。当時書かれた『潜夫論』にも農業より儲かるから農地を捨てる人が多かったことが書かれている。
 後漢では奴婢の売買は禁止されたし、また売買の必要性もなかったのである。
 
リンカーンの奴隷解放と劉秀の奴婢解放の違い
 劉秀の奴婢解放はしばしばアメリカ大統領リンカーンの奴隷解放と比較される。そして時代の古さから、劉秀の奴婢解放はリンカーンの奴隷解放と違い政治的なものとされる。しかし真相は真逆である。
 リンカーンの奴隷解放は明確な政治的な目的によるものである。リンカーン自身は確かに奴隷制反対の立場であったが、あくまでも国家の統一を優先し、南部が合衆国に戻るなら奴隷解放はしなくてもよいと考え、その意思を何度も南部に伝達していた。
 それが変更されたのは外交の問題である。南北戦争が長引くと、経済も人口も劣勢な南部が善戦していることに対して諸外国から同情が集まり始めていた。イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が介入する気勢を見せていたのである。
 それを封じるための政治戦略が奴隷解放であった。南北戦争を正義の戦争であると定義し、南部を奴隷制を持つ道義的に劣った存在とすることで、イギリス、フランスに南部を援助させないようにしたのである。これが功を奏し、イギリス、フランスともに南部を支持することなく、リンカーンは南北戦争を終結させることに成功したのである。
 それに対して劉秀の場合はどうか。当時の状況を見てみよう。
 新末の農民反乱の猛威に、豪族は自衛のために独立勢力となって、地方を割拠し、天下は分裂する。劉秀の統一に抵抗した政権のほとんどが豪族連合政権であった。特に蜀の公孫述政権、隴西の隗囂ともに典型的な豪族政権であった。
 蜀と隴西は戦乱の少ない新天地であり、中原の大混乱を避けたたくさんの避難民が流れ込んでいた。着の身着のままの難民は資産もなく土地もない。新しい土地で地元の豪族に奴婢として使役される身分に甘んじざるを得ない。公孫述と隗囂の政権では、無数の奴婢が使役されていた。
 ところが劉秀政権は奴婢の解放を早々と宣言し、その待遇改善を実行していた。公孫述、隗囂から見れば、兵員の八割以上が銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍から構成され、奴婢の解放と保護を宣言し、馬武、臧宮、王常といった緑林の将軍まで現役で活躍している劉秀政権は、農民軍政権そのものとしか映らなかったであろう。
 公孫述と隗囂の政権にとって劉秀に降伏するということは、その財産を大量に没収されることを意味していた。そのため公孫述も隗囂も劉秀の六分の一にすら満たない勢力であるのに、徹底抗戦を展開し、全滅するまで戦い続けたのである。劉秀の奴婢解放は統一戦争の妨げになっていたことがわかる。
 しかも当時の中国には道義的な理由で介入するような外国は存在しない。劉秀の奴婢解放は、実際の政治政策としては死傷者を増やす誤った政治戦略であったことがわかる。リンカーンの奴隷解放とはすべての意味で真逆なのである。
 もし奴婢解放をするのなら、天下統一後にすればこうした抵抗はなかったはずである。ではなぜ劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのか。それは劉秀の政権の兵力のほとんどを銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍が占めているということにある。
 飢饉のために飢えに苦しんだ農民には、二つの選択肢があった。土地を捨てて流浪し農民反乱軍に加わるか、豪族に身売りして奴婢に転落するかである。このとき反乱軍に加わるのは壮年の男子が多く、女子供は豪族に売られることが多かった。劉秀の率いる兵士たちの妻子は、豪族に買い取られて奴婢に転落している者が多かったのだ。
 劉秀は常に自ら先頭に立って戦い、直接に兵士を率いていたから、当然、彼らの悲しみや悲劇を良く知っていた。夜な夜な妻子を想って涙する兵士がいることを。劉秀は自分の兵士たちの、家族に再会したい、家族とともに暮らしたいという願いを叶えるために、奴婢の解放に踏み切ったということなのである。
 劉秀自身、皇帝に即位してそれから洛陽を陥落させてやっと、妻の陰麗華、姉の劉黄、妹の劉伯姫と再会できた。家族との再会の喜びを自分だけが味わうことは許されないと考えたのであろう。そのため劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのである。

・・・・・・抜粋終わり

平等を目指す戦い・土地調査を始める
 だが真の平等はただ法律で規定し、それを強制するだけで達成されるものではない。奴婢の多くは経済的格差が生み出したものなのだ。社会学者ケビン・ベイルズは、人類の歴史で奴隷人口が一番多い時代は古代でも中世でもなく、すべての国で奴隷制が禁止されている現代であることを指摘している。人権の平等は、経済の平等の上にこそ実現する理想なのである。
 真に平等な社会を作るには、経済を平等に把握する必要がある。
 こうして始まったのが度田、建武十五年(西暦39年)の全国の土地人口調査である。劉秀は州や郡に命じて全国の田畑の面積、人口や戸数、年齢の調査をしたのだ。詔して、州郡の開墾された田畑と戸数と年齢を取り調べ、二千石の官吏で上官におもねるもの、民衆をしいたげているもの、あるいは不公平なものを調べた。
 だがここで劉秀の改革は重大局面を迎える。ここまで軍備、税制、法律などを大胆に改革を続けた劉秀であるが、強力な反動が来たのである。
 調べる主体である刺史や太守に不公平な者が多くおり、豪族を優遇し、弱いものから絞り取り、大衆は怨み道に怨嗟の声が広がった。刺史や太守の多くが巧みに文書を偽造し、事実を無視し、田を測るのを名目にして、人々を田の中に集めて、村落の家々まで測ったので、人々は役人を道を遮って泣いて懇願した。
 このとき各郡からそれぞれ使者が来て結果を上奏していた。陳留郡の官吏の牘の上に書き込みがあった。「潁川、弘農は問うべし、河南、南陽は問うべからず」とある。
 劉秀は官吏に意味を問い詰めたが、官吏は答えようとせず、長寿街でこれを拾ったと嘘をついた。劉秀は怒った。
 このとき後の明帝、年は十二歳の東海公の劉陽が、帷幄の後ろから言った。「官吏は郡の勅命により、農地を比較したいのです」
 陳留郡の使者は、自分たちの作為の数字を潁川郡、弘農郡と比較して妥当な数値に収まっているか確認するように指示されていたのである。劉秀は言う。
「それならば何ゆえ河南と南陽は問うてはならぬのか」
「河南は帝城であり、大臣が多くいます。南陽は帝の郷里であり、親戚がいます。邸宅や田畑が制度を越えていても基準を守らせることはできません」
 河南と南陽は問うなとは、この二つは例外地域で法外な数値を出しているに決まっているから、真似して数値を作ると痛い目に遭うから注意しろと指示されていたのだ。劉秀は虎賁将に官吏を詰問させると、官吏はついに真実を述べたが、劉陽の答えのとおりであった。これにより謁者を派遣し刺史や太守の罪を糾明した。
 この結果たくさんの地方官が事件に連座した。河南尹張伋や各郡の二千石級の大官が虚偽報告などで罪を問われ、十数人が下獄し処刑されて死んだ。
 他にも鮑永、李章、宋弘、王元といった重臣までが虚偽報告に連座しているが、最も大物は首相級というべき大司徒の欧陽歙である。
 欧陽歙は汝南で千余万を隠匿した罪で牢獄に収監された。当代最高クラスの学者としても知られる欧陽歙の投獄に、学生千人あまりが宮殿の門まで押しかけて罪の減免を訴えた。ある者は髭を剃ったりした。この時代、髭を剃るのは犯罪者への刑罰としてだけであり、当時としては過激な行為である。平原の礼震という者は自らが代わりに死ぬので欧陽歙を助けて欲しいと上書した。劉秀の旧知でもある汝南の高獲は、鉄の冠をかぶるなど罪人を格好をして減免を求めて門に現れた。
 これはおそらく世界初の学生デモである。劉秀のような評判のよい君主が学生デモの対象となったのは興味深い。このとき劉秀と高獲との会話が残っていることから、劉秀は学生たちと対話したようである。しかし結局、劉秀はこうした抗議に対して断固とした態度をとり続け、欧陽歙は獄中に死ぬことになる。
 
豪族のゲリラ戦と皇帝の謀略戦
 劉秀に衝撃だったのは、建国の功臣である劉隆(二十八星宿十六位)も不正に連座したことで、周囲の者十数人を処刑し本人も庶人とせざるを得なかった。翌年に劉隆が南越討伐に派遣されているのは、その汚名払拭のためのようだ。
 劉秀の断固たる措置に汚職役人は打撃を受けたが、すると今度は郡や国の名門、豪族、群盗が次々と挙兵し、いたるところを攻め官吏を殺害した。汚職役人を粛清したところ、汚職役人と結託した土着豪族が、新しく刷新された役人を殺戮し脅迫を始めたのである。郡や県が軍を出して追いかけて討伐すると、軍の到着とともに解散し、軍が去れば集結した。ゲリラ戦を展開したのである。青州、徐州、幽州、冀州が最もひどかった。
 このゲリラ戦の戦い方は明白に農民反乱とは異なる。農民反乱は山林に集合して流浪するのであるが、この反乱では帰るところがあるのだ。それはもちろん豪族の邸宅である。かつて南陽で侠客として知られた劉秀の兄の劉縯は、殺人事件を犯すなど問題が多かったが、多数の武装した食客を抱えていたため、役人たちも恐れてその門をくぐることが出来なかった。このゲリラ戦は、典型的な豪族のやり口であることがわかるだろう。軍が到着しても、地元の役人は恐れてどこに逃げ込んだのか申告できなかったのである。
 今回の土地調査を、地方の豪族支配に対する中央政府による重大な挑戦と見なした豪族が、レジスタンス、あるいはサボタージュ作戦を始めたのだ。劉秀政権は挙兵当初より民衆反乱軍を自らの基盤にして、敵対する豪族政権を掃討して天下統一し、その後も一貫して民衆側に立った政治を進めていたが、ここでもまた豪族側の抵抗が始まったのである。
 劉秀は謀略を用いて対応した。使者を郡国に派遣し、群盗が仲間を訴えて五人につき一人を斬ればその罪を免除した。官吏で現地に赴任せずに道中で待機した者、敵から逃げた者、敵を放した者も、みな罪を問わず、これから敵を討って捕らえれば功績とした。現職の牧、太守、県令、亭長で、境界内の盗賊を捕らえなかった者、恐れて城を他人に任せて逃げた者、みなその責任とせず、ただ賊を捕らえた数の多少を重要とし、かくまったもののみを罪とした。
 さらにかつて赤眉戦で鄧禹軍随一の猛将と知られた張宗を派遣すると、その武威を恐れ、お互いを斬り捕まえて降伏するものが数千人となり、青州、徐州は戦慄した。
 こうして賊は次々と解散した。賊の首領を他の郡に遷し、公田を与えて生業につかせた。これより平和が訪れた。牛馬は放牧され邑の門も閉ざされることはなくなったと伝えている。
 この豪族反乱は、豪族が指導者とはいえ実行部隊は一般民衆である。劉秀はそこで豪族をねらい打ちにするため、かくまった者の罪を問い、首領である豪族の力を奪うため、豪族を他の郡へと転居させて民衆との連結を断ち切り、民衆の罪は問わないで済むようにしたのである。
 劉秀得意の敵を分裂させて自滅させる謀略を採用したのである。この謀略であるが、情報戦の達人耿弇の助言があったかもしれない。というのは、耿弇は列侯として朝廷におり、問題が発生するたびに顧問として策略を献じたとされ、しかも乱の発生した青州こそは、耿弇がかつて平定した張歩の領域だからである。
 
史家もまた豪族であること
 この土地調査については、失敗に終わり二度と実施されなかったと伝統的に解釈されてきた。その理由はただ土地調査についてこの後にまとまった記述がないこと、劉秀が豪族出身であるという先入観のためであった。しかし近年の研究の結果その評価は反転し、土地調査は大成功であり、後漢では定期的に行われるようになったとするのが有力だ。
 たとえば『後漢書』五行志には建武十七年(西暦41年)のこととして「各郡は新しい税が定まった後であったため(諸郡新坐租之後)」とあり、この土地調査の後に新しい税制が全国的に施行されたことがわかる。また『武威漢簡』には建武十九年(西暦43年)の記録に「度田は五月に行い、三畝以上の隠匿については……」という記録がある。さらに次の明帝の時代には田畑を過大に申告して、役人が統治成績を高く申告しようとして処罰されるというケースが劉般伝に記載されている。その次の章帝の時代には、秦彭が田畑の質を三段階に区分して測るにように進言し、それが採用されてさらに精密化していくのである。
 土地調査についてまとまった記述がないのは、史家自身が土地調査によって取り締まられる大土地所有者であり、この画期的な政策も、儒家の視点では論ずるに値しない法家的な政策として無視されたためなのである。
 そもそも劉秀の統治下では、豪族の弾圧や取り締まりの記事が歴史的に希有なほど多く、酷吏伝を中心に十七件もの記録がある。それほど劉秀は豪族と激しく対立していたのである。
 二十世紀の歴史研究者は、劉秀は豪族に迎合し法を曲げたと非難していた。ところが史書では儒家の歴史家が、劉秀は法を苛烈に運用して豪族を抑圧した圧政であると非難しているのだ。イデオロギーがいかに恣意的な分析を生み出すのかの典型例であると言えよう。
 度田は中国史上初の土地、住宅、人口の全国統計調査である。そして後漢以後に度田に相当することを再開したのは隋の文帝であり、それは六百年近くも後のことであった。
 土地調査の二年後に、劉秀は有名な「柔道をもって治める」という発言する。かつてこれを土地調査の放棄と豪族への降服宣言であると悪意をもって解釈されたこともあったが、発言時期や場所から見ても豪族対策とは何の関係もなく、そのまさしく同じ月に起こった皇后廃立問題についての発言と考えられる。柔道の発言の年には既に新しい税が施行されたとあり、土地調査の問題は終わっているのであるから、この発言が土地調査と関係があると考えるのはひどいこじつけである。これは後にも詳述する。
 
韓歆の自殺問題
 この土地調査の経緯を理解すると、劉秀の治世の失敗の一つとされる、韓歆を自殺に追い込んだ事件の謎を解くことができる。
 韓歆は建武十三年(西暦37年)に大司徒となったが、その諫言があまりに激しく劉秀が怒ってしまい、建武十五年(西暦39年)一月、韓歆を罷免して帰郷させ、さらに問責までしたために、韓歆とその子である韓嬰が自殺してしまったという事件である。諫言だけで死に追いやったのは不当であるとして評判が悪い。
 司馬光は『資治通鑑』で、劉秀ほど寛容な君主ですら許容できなかったのは残念なことだと述べており、釈然としていないようである。
 史書には、劉秀が隗囂、公孫述と文書でやりとりしていたことを韓歆が非難したこと、今年は凶作となりましょうと、天を指し地を線を描き、激烈に諫言したことが記載されるが、なぜこれで劉秀が怒るのかかなり理解に苦しむ内容になっている。
 だがこれは土地調査と関連していたと考えると謎を解くことができる。
 土地調査では、南陽の豪族の大土地所有のごまかしが問題になったが、韓歆こそはまさに南陽の大豪族であり大土地所有者であるのだ。しかも韓歆の問責に強く反対した人物に鮑永がいるが、鮑永も土地調査のとき虚偽報告により罪を問われている。
 そして決定的なのはこの事件が建武十五年(西暦39年)一月のことだということ。「今年は凶作となりましょう」の今年とは、まさに土地調査の年のことなのだ。
 土地調査のような大事業を突然思いついて行動するはずもなく、数年前から練って協議していたはずである。それを示す証拠が、同じく南陽出身の大臣である大司馬呉漢の行動である。呉漢は、妻子が田畑を買い集めて土地を広げているのを知ると、それらをすべて処分させた。自宅も古くなった部分を修理するだけで、新しい邸宅を建てようとしなかったのである。呉漢はこれから始まる土地調査に備えて身辺を整理していたことがわかる。
 この呉漢の行動と連動していると見られるのが、功臣の引退である。建武十三年(西暦37年)に鄧禹、耿弇、賈復、建武十五年(西暦39年)に朱祜、李通が引退しているが、彼らはみな大豪族であり、大土地所有者である。度田において、最も危険な立場になる人物が直前に引退していることがわかる。彼ら自身は劉秀の腹心であるが、その家族はむしろ豪族側の存在である。豪族側の旗頭に担がれる危険を未然に防いだわけである。功臣でも呉漢、臧宮、馬武、馬成、王覇など大豪族にほど遠い存在は政権に残っている。例外が劉隆で、見事に処罰されてしまった。
 劉秀はここまで温めていた土地調査の実行をこの年に決め、大臣たる韓歆に相談したのであろう。そしてその返答が、天を指し地を画し、土地調査などすれば天は怒り「今年は凶作となりましょう」というものなのである。劉秀が韓歆を帰郷させ問責したのは、土地調査強行の意志表示なのである。反対派の親玉が執行者のトップでは話にならない。そして、それに対して韓歆が自殺したのは、大地主豪族グループのリーダーとしての決死の抗議なのだ。
 こうして考えると、なぜ韓歆だけでなくその息子まで自殺したのかがわかるだろう。非難されているのは韓歆個人ではなく、韓歆の一族であるからだ。
 韓歆自殺事件とは土地調査における豪族の抵抗の序章だったのである。

・・・・・・・・抜粋終わり

いや~光武帝って、変ですは・・

あの時代に「まじ」で「奴隷解放」しよとしてる。

今でも「金銭労働で、使い倒して過労死しようが、自己責任」など、一種の奴隷制を、隠れて実行している我が国とかあるのだし。

>ところが劉秀政権は奴婢の解放を早々と宣言し、その待遇改善を実行していた。公孫述、隗囂から見れば、兵員の八割以上が銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍から構成され、奴婢の解放と保護を宣言し、馬武、臧宮、王常といった緑林の将軍まで現役で活躍している劉秀政権は、農民軍政権そのものとしか映らなかったであろう。

>しかも当時の中国には道義的な理由で介入するような外国は存在しない。劉秀の奴婢解放は、実際の政治政策としては死傷者を増やす誤った政治戦略であったことがわかる。リンカーンの奴隷解放とはすべての意味で真逆なのである。
>もし奴婢解放をするのなら、天下統一後にすればこうした抵抗はなかったはずである。ではなぜ劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのか。それは劉秀の政権の兵力のほとんどを銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍が占めているということにある。

だよね。

特に

>しかも当時の中国には道義的な理由で介入するような外国は存在しない。劉秀の奴婢解放は、実際の政治政策としては死傷者を増やす誤った政治戦略であったことがわかる。


て、普通の軍略家なら「アウト!」って言っているは。


>劉秀は常に自ら先頭に立って戦い、直接に兵士を率いていたから、当然、彼らの悲しみや悲劇を良く知っていた。夜な夜な妻子を想って涙する兵士がいることを。劉秀は自分の兵士たちの、家族に再会したい、家族とともに暮らしたいという願いを叶えるために、奴婢の解放に踏み切ったということなのである。


現在の、例の冷淡な「保守主義者」どもなら

「だから、理想って悪いんだ。弱い奴は強者に餌に成れ」っていうだろう。


だが、それが社会が、例の保守主義者の利権・富を、破壊していく・・


今更ながら 私たち皆が 問うべき問題があります 「どこで道を誤ったのだろうか 新型コロナウィルス対策だけでなく 私たちの市民生活において」です 何が私たちを 政治的に二極化しギスギスした この局面に導いたのでしょうか


00:18
ここ数十年で 勝者と敗者の隔たりは深まり続けており 政治に悪影響を与え 私たちをばらばらにしました 隔たりの一部は 不平等に関するものです しかし 不平等に伴う 勝ち負けに対する態度も その一部です 頂点に立った者は 成功は自力で成し遂げたものであり 自分の優秀さの尺度である そして 敗者に対しては その人自身が悪いのだ と思うようになりました


00:53
成功についての このような考え方は 一見 魅力的な ある原則に由来します すべての人に 平等に機会が与えられるなら 勝者が得た勝利は その人にふさわしいというものです これが 能力主義が掲げる理想の本質です もちろん実際問題としては 理想通りにはいきません 足掛かりとなる機会が 誰にでも 平等に与えられているわけではないのです 貧困家庭に生まれた子供は 成長しても貧困のままという傾向があります 裕福な親は自分たちの優位性を 子供に受け継がせることができます 例えば アイビーリーグの大学では アメリカで 収入が上位1%の 家庭出身の学生の数が 下位50%の家庭出身の学生を 全員合わせたよりも多いのです


01:45
しかし問題は 私たちが謳う 能力主義の原則を 逸脱していることだけではありません 能力主義の理想そのものに不備があります 負の側面があるのです 能力主義は公益を むしばみます 勝者を思い上がらせ 敗者に屈辱を与えます 能力主義のせいで 成功者は過度に成功に酔い 成功途上でのツキや幸運を 忘れてしまいます そして自分よりも運に恵まれなかった人や 資格面で劣る人を 見下すのです これは政治においても問題です 大衆の反発の強力な源泉の一つは 多くの労働者が持っている感覚で エリート層に見下されているというものです このような不満を抱くのも当然です


02:48
グローバル化が不平等を深め 賃金の停滞を招いたときに グローバル化の支持者は 労働者に もっともらしい助言をしました 「グローバル経済の中で 競争して勝ちたかったら 大学へ行きなさい」 「何を勉強したかで どれだけ稼げるかが決まる」 「やればできる」 エリートは この助言に隠された侮辱が 見えていないのです 大学に行かなければ 新しい経済で成功しなければ 失敗は自己責任です これが隠された意味です 多くの労働者が能力主義のエリートに 反発するのも無理もありません


03:38
では どうすべきでしょうか? 市民生活を3つの観点から 考え直す必要があります 大学の役割 働くことの尊さ 成功の意味 です


03:50
私たちは 将来の選択肢を増やしてくれる 最高学府としての大学の役割を 考え直すことから始めるべきです 高い資格を持つ人々に囲まれて 日々を過ごす私たちは 基本的な事実を忘れてしまいがちです それは たいていの人が 4年制大学の学位を持たないことです それどころか アメリカでは 3分の2近くの人が持っていません ですから 大学の卒業証書を 立派な仕事や まともな生活の 必要条件とするような経済を構築するなど 愚かなことなのです


04:30
人々に大学への進学を 勧めることは よいことです 金銭的に余裕のない人でも 大学に進学できるようにすることは さらに よいことです しかし これは不平等の 解決策ではありません 私たちは 能力主義の闘争のために 人々を武装させることより 大学の卒業証書は持たないが 社会に欠かせない貢献をしている人々の 生活をよくすることに注力すべきです


04:59
働くことの尊さを再定義し 政治の中心に据えるべきです 働くこととは 生計を立てることだけではなく 公益に寄与し それに対する認識を 得ることであるということを 忘れてはいけません


05:16
このことを ロバート・ケネディは 半世紀前に次のように言い表しています 「仲間意識 コミュニティ 共通の愛国心 これらの必要不可欠な価値観は 単にモノを一緒に購買し消費することによって 生まれるのではない 適切な賃金での尊厳のある雇用によって 生まれるのである それは被雇用者が 『私は この国の建設を手助けした 私は壮大な公益事業の参加者なのだ』 と言えるような雇用である」 このような国民感情は こんにちの社会生活からは ほとんど見当たりません


05:56
私たちは ある人が稼ぐお金を その人の公益への貢献の尺度として とらえることがよくあります しかし これは間違いです その理由を キング牧師が 説明してくれています 牧師が暗殺される少し前に起きた — テネシー州メンフィスでの 清掃作業員によるストライキを顧みて キング牧師は言いました 「私たちのごみを収集してくれる人は 突き詰めて考えると 医師と同じくらい重要です なぜなら もし彼が仕事をしなかったら 病気が蔓延するからです 仕事は すべて尊いのです」


06:39
こんにちのコロナ大流行を見れば 明らかな話です 普段 私たちの目に入らないような 労働者たちに 実はどれだけ依存しているかが 露呈しました 配達業者 保守作業者 食料品店の店員 倉庫作業者 トラック運転手 看護助手 保育士 訪問看護従事者 こういった職業は給料がいいわけでも 特に尊敬されるわけでもありません しかし今 私たちは この人たちを エッセンシャルワーカーとして認識しています 今こそ まさに この人たちの賃金と認知度を いかに その仕事の重要性に 見合ったものにするかについて 公けに議論するときです


07:25
また 私たちが持つ 能力主義の傲慢を 道徳的 さらには精神的にも方向転換し 疑問視するときでもあります 自分の活躍を可能にしている才能に 私は道徳的に見合っているか? 私に偶然 備わった才能を 賞賛する社会で生活しているが それは私の手柄なのか? それとも運なのか? 自分の成功を当然 自分に相応しいと 主張することは 他の人の立場に立って自分を見ることを 難しくしてしまいます 人生における運の役割を認めることは それなりの謙虚さをもたらします 生まれや 神の恵み 運命の神秘といった 巡り合わせが悪ければ 自分もああなっていた と


08:15
この謙虚さの精神が 今 私たちに必要な公徳心です この謙虚さの精神が 私たちを隔てる過酷な成功の倫理から 引き返す道の始まりなのです この謙虚さの精神が 能力主義の横暴の先にある — より平穏で懐の広い社会生活へと 私たちを導くのです


・・・・・・・抜粋終わり

特に

>「グローバル経済の中で 競争して勝ちたかったら 大学へ行きなさい」 「何を勉強したかで どれだけ稼げるかが決まる」 「やればできる」 エリートは この助言に隠された侮辱が 見えていないのです 大学に行かなければ 新しい経済で成功しなければ 失敗は自己責任です これが隠された意味です 多くの労働者が能力主義のエリートに 反発するのも無理もありません

>普段 私たちの目に入らないような 労働者たちに 実はどれだけ依存しているかが 露呈しました 配達業者 保守作業者 食料品店の店員 倉庫作業者 トラック運転手 看護助手 保育士 訪問看護従事者 こういった職業は給料がいいわけでも 特に尊敬されるわけでもありません しかし今 私たちは この人たちを エッセンシャルワーカーとして認識しています 今こそ まさに この人たちの賃金と認知度を いかに その仕事の重要性に 見合ったものにするかについて 公けに議論するときです

>私たちが持つ 能力主義の傲慢を 道徳的 さらには精神的にも方向転換し 疑問視するときでもあります 自分の活躍を可能にしている才能に 私は道徳的に見合っているか? 私に偶然 備わった才能を 賞賛する社会で生活しているが それは私の手柄なのか? それとも運なのか? 自分の成功を当然 自分に相応しいと 主張することは 他の人の立場に立って自分を見ることを 難しくしてしまいます 人生における運の役割を認めることは それなりの謙虚さをもたらします 生まれや 神の恵み 運命の神秘といった 巡り合わせが悪ければ 自分もああなっていた と


てこと。

ちょうど

「奴隷になった奴は、そいつの努力が足らん」

「自分らの努力の成果が資産で奴隷の所有だ。それに文句あるか」

ていう、紀元0年代の「豪族~セレブ」と、今も富裕層が、結構そっくりなのも私は指摘する。

>だが真の平等はただ法律で規定し、それを強制するだけで達成されるものではない。奴婢の多くは経済的格差が生み出したものなのだ。社会学者ケビン・ベイルズは、人類の歴史で奴隷人口が一番多い時代は古代でも中世でもなく、すべての国で奴隷制が禁止されている現代であることを指摘している。人権の平等は、経済の平等の上にこそ実現する理想なのである。


と、この出典先の筆者のいうとおりで


>普段 私たちの目に入らないような 労働者たちに 実はどれだけ依存しているかが 露呈しました 配達業者 保守作業者 食料品店の店員 倉庫作業者 トラック運転手 看護助手 保育士 訪問看護従事者 こういった職業は給料がいいわけでも 特に尊敬されるわけでもありません しかし今 私たちは この人たちを エッセンシャルワーカーとして認識しています 今こそ まさに この人たちの賃金と認知度を いかに その仕事の重要性に 見合ったものにするかについて 公けに議論するときです


エッセンシャルワーカー無しに社会は存在し得ない。それを馬鹿にして侮蔑して旨い事回る社会など無い。


それを改善するのを「革命」とか「共産化」とか言うかもしれないが、

本当は、アホな富裕層が「社会・人類」を破壊することから守る

「保守・社会の擁護」なのである。



もしかしたら、光武帝のやった激烈な富裕層への改革・粛清が無いと、今の社会の「まともな継続」などあり得ないのかもしれない。


なんか書いているうちに、当初の半分笑いの記事ではなくなったけど。

まあいいか。








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