「根っこの思想・生き方」が壊れてた。ので、スポーツは人を不幸にするのだ。




私は、幻の桜氏のいう

「スポーツは、才能の浪費」って言葉をあえて推す。



生きるための筋肉が 
スポーツの筋肉より残りやすいのは
当然

筋肉の種類が違う 」

筋肉の種類?
(・・;)?


スポーツは生きるための動きではない 
見せるための動き

仕事は生きるための動き 
動きの動機の成り立ちが違う

動機が違えば
筋肉の質も変わる 」
(・・;)・


同じ泳ぐでも
水泳選手の泳ぐと
海女さんの泳ぐは違う

水泳選手の選手寿命は短いが

海女さんは
年を老いても
海 深く潜れる
生きるためにする動作だから
その力を長く 
身体に蓄えさせる 」

(・・;)

生命は
生き続けたいと想うことで
進化し 
存在としての形を為してきた 
生き続けたいと想う為の力は
生命は貯えようとする
見せるための力は
蓄えようとはしない
スポーツは無駄な動き
だから
それをしたところで
寿命や 動く力が長く留められるわけはない 」(その時聞こえてきた言葉)

そういえば、中国武術の大家・孫禄堂が


「あなたが心身の健康を求めてきたのなら責任をもって教えます。武芸で名を上げて出世したいとかなら、他の先生に当たってください」

と言ってた。

まあ、死にかけて生きるために武術を始めた孫老師らしいともいえるけど。


そもそも甲子園も、野球をしたくても馬鹿指導者につぶされた選手や補欠の選手のことを、思いやっても無い。

さらにいうと、いじめや教師の迫害で学校に行けなくなった「不登校」の人のことも、おざなりにして「その子の思い出のためになんとしても」って見ない。


そういう意味で

「五輪級アスリートだけ、何故にそこまで、援助や人間の生命の危険を冒してまでの五輪開催とか、してもらえるのか」

と「ヘイト」ならぬ「上級国民疑惑」を持たれてもやむ得ない。


だいたい、五輪も、人為。潰れることもある。なんなら、天災で急にご破算もある。

だったら、中止があっても、当然のことだろう。

死んでも開催しろ!って、それだけアスリートは脆弱な生き物でもあるってことである。


王陽明が、易経の一節を引いて{伝習録 吉田公平氏訳}いうには、

抜粋・・・・・・・

「諸君は「世間から身を退いても悶えることなく、自分の主張が認められなくとも悶えることのない」{易経・文言伝}主体性を保持しなさい。良知そのものに依拠して、忍耐して実践し、他人に非難中傷されようと、誹謗されようと、賞賛されようと、侮辱されようと一切かまわずに、その努力も進歩があっても後退があっても事実のままにまかせて、ともかくこの良知を発揮する主宰者として努力することを中断しなければ、いずれそのうちには無意識のうちに実力がつくものであるそうすると、どんなことがおこっても、ちゃんと動揺しなくなるものだよ。」

「人々がもしも着実に努力をしたのならば、人々から誹謗されようと、さらに欺瞞されようと、それぞれが益となり、それぞれが人格を高める機会になる。もしも努力しないと、それこそが悪魔のはたらきとなって、結局はそれにふりまわされてしまうものなのである。」

・・・・・・・・抜粋おわり


結局、スポーツをしても、表面の強さは手にしても

それは

>生き続けたいと想う為の力は
生命は貯えようとする

>見せるための力は
蓄えようとはしない


てことになる。

それは偉大な才能でも「その浪費」に過ぎないと言われてもやむえない。


なんとなく参考に


この三十六計のサイトを見ていると、日本のアスリートって、そう意味で頭が良くない、哲学・思想が無い。


かなりの優秀な資質の人間を「筋力」等の身体も「才能の浪費」をさせ、知性や人格も、幼稚なり「浅薄」にする。

て、ようするに「スポーツ」って、娯楽以上になって「ムダなもの」になってしまった。と言いえるかもしれない。








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