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期待など、ゴミ箱に捨ててしまえ。


飲み会などの場で時折、「裏切られた」とか「騙された」という愚痴を耳にすることがある。

契約を反故にされたとか、詐欺に引っかかったのかと思い、話を聞いてみると、
「3人グループだったのに、2人がこっそり遊びに行った」とか、
「恋人があまりLINEを返してくれない」とか、
「困っていたのに助けてくれなかった」とか、案外そういう類だったりするのだ。

その気持ちは理解できるが、本当に相手が悪いのか、その愚痴は妥当なのかモヤモヤが残ることが多々あった(愚痴に正しさを求めるのも野暮だが)。そんな経験を繰り返すうちに、何となく見えてきた本質がある。

こういった愚痴をこぼす人たちは、恋人や友人などの”他人”に期待しすぎなのだ。

例えば友人関係において、このグループで旅行に行くなら私も誘われるはずだとか、恋人関係において、こんなに苦しい思いをしているのだから理解してくれるはずだとか、無意識に期待してしまっているように見える。結果、本来相手に責務がないことまで「してくれて当たり前」と勝手に思ってしまい、結果それがなされないと「裏切られた」と感じてしまうのである。

もちろん、相手の気持ちを汲んで行動することは素敵だし、異性からモテる人間はもれなくそれが出来る。「相手の期待を上回る」のはビジネスのセオリーでもあるくらいだ。
けれどそれは、期待に応える側の論理である。依頼する側が、相手の厚意に甘えていい理由にはならない。「俺の期待を裏切るなんて…」、「義理と人情に反している」、「あなたを信頼していたのに」等の考えは、ほとんどのケースで暴論なのである。

少し視界を広げると、自分の所属する学校や会社、地域、国、ひいては世界に対しても同様に、不用意に期待すべきではない。学校で何でも教えてくれるだろうとか、未来は会社が保証してくれるだろうとか、貯金してなくても国が何とかしてくれるだろうとか、自分に都合よく”期待”で懸念に蓋をする人が一定数いるように思う。失敗があった時に、言い訳や愚痴ではなくて次に繋げられるような立ち回りこそ、自責の伴った行動なのではないか。

極論、どんな状況であっても、自分次第なのである。
他人や環境に対する都合のいい”期待”はゴミ箱に捨て置き、他人が何かしてくれたら儲け物、基本的には自分が何とかするくらいのつもりで人生を歩んでいれば、「裏切られた」と感じることも減るのではないかなと思う。


最後に雑記だが、自分に対して期待する人も多すぎる。noteを毎日更新できるとか、YouTubeをすぐに収益化できるとか期待を膨らませて、後々ピークアウトしてから自分に失望する…、そんな無意味なことを繰り返し続けることに何の意味があるのか。
…まぁ上記は、私のことなのであるが。

他人にも自分にもいい意味で期待せず、責務以上の役割を果たしたら褒め称えるくらいのスタンスの方が、人間関係も日々の生活も上手くいくのではないだろうか。
私自身、今日は期待していなかった中でnoteを更新したので、100点満点であった。と自分に言い聞かせて、本記事を終了とする。

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