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「多様性」 を潰す 「多様性」 。


昭和に比べたら、令和は「多様性」に寛容な世の中になった
と思う。

結婚して複数子供をつくって、マイホームと車を購入して、一つの会社に勤め続けて、退職金と年金で優雅な老後暮らしをするのが幸せ…
というテンプレートを”強制”する雰囲気は、かなり薄くなったのではなかろうか。

何度転職をしてもいいし、フリーランスで稼いでもいい。車を買わない世帯も多いし、一生賃貸でも楽しく生きていける。子供をつくらず夫婦仲良く過ごしてもいいし、何なら結婚しなくてもいい。一人ひとりが自分の人生を最大限幸せに暮らすことができれば、生き方は人それぞれという”当たり前の”はずの風潮が、令和になってやっと出来上がりつつあると感じる。


しかし、それと同時に「多様性を認めろ!」という声が強くなってきたようにも思うのだ。

例えば、男女平等を謳う人々。

前提として、男尊女卑なんて化石レベルに古い考え方だし、家庭内での役割は、性別で決定せず二人が納得できる形であるべきだろう。「家事は女性がやるべき」とか「男性の苗字に統一すべき」なんて意味のない風潮は不要だと、本気で考えている(現に、弊家では私が料理をするし、苗字は妻のものに変更する予定だ)。

その上で、ファミリーマートの「お母さん食堂」というシリーズにバッシングが集まったり、女性を起用した食品・家電類のCMや広告に批判が来たり、という状況に思うところがある。これは、「女性が家庭でご飯を用意する、家事をするのが当たり前というイメージを払拭したい」という考えに基づいた主張であり、それ自体は否定できるものではない。
しかし、専業主婦として家庭を支えている”昭和から存在する幸せフォーマット”を生きる女性を否定する行動となってしまっているのに、当人たちは気づけていないのではないだろうか。


結局、他人の価値観や行動に関心が生まれてしまう以上、「多様性」は存続し得ないのだと思う。
「多様性って大事だよね?あなたもそう思うでしょ?違うって言うなら差別主義者なんだよ?」なんて風潮で他人の考えや行動を縛るのは、「多様性」から最も遠いからだ。自分自身がそれを重要視して行動するのは素晴らしいことだが、その目を人に向けないよう注意する必要がある。

だからといって、他人に関心を持たないのはほぼ不可能な話である。社会を生きる上で、自分の正義を以て間違った考えや行いを正すことが求められるシーンも、中には存在するだろう。
私が言いたいのは、完璧な「多様性」は存在しないのだから、それを最善と考えず、そしてそれを正義として振りかざさない”バランス感覚”が、令和の社会を生きる上で大切なのだということである。


末筆になったが、「多様性」を許容する側面を含んでいると、その意見は一見正しいように見える。それは、誰しもが違った正義と価値観を持っているからで、それ自体を否定することは何人たりともできないのである。

しかし、「多様性」を善と考えすぎた結果、他人の・或いは従来の考え方や生き方を否定してしまう可能性を、私たちは考慮しなくてはいけない。絶対に正しい考え方や極論なんてないこと、そしてそれら全てを許容する「多様性」もまた存在しえないという矛盾を、各々が念頭に置いて過ごしてほしいと、切に願うばかりだ。

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