音楽と環境音

先日、音楽家・サウンドアーティストである松本一哉さんの3rdアルバム『無常』リリースツアーライブに行ってきた。パフォーマンスを拝見しながら、最近考えていることについて整理したくなったので、書いてみる。

まず、本人がデモ演奏動画を投稿されているので、勝手ながらご紹介。演奏はこんな雰囲気だった。

環境音も自分の演奏の一部と捉え、偶然起きていく現象に呼応しながら演奏する即興的なパフォーマンスである。波紋音(はもん)と言う金属製の楽器(正確には楽器じゃないらしい?)を打ち鳴らし、背面の銅鑼をマレットで擦る。その他にもいろんな謎めいたものを並べ、鳴らしていく。どれも音が鳴るので楽器に見えるのだが、本来楽器じゃないのだと思う。(ここでは便宜上、楽器と記述している)
彼は用意した楽器だけじゃなく、壁や床やあらゆるものを打ち鳴らし、擦ったりする。ドアを開閉したり、会場設備の機器の電源をオン/オフしたりと、常に音を探しているようである。僕らは、彼のパフォーマンスを通して、「その物体からそんな音がするの?」という発見があったり、今まで意識外にあった風の音や、誰かの喉が鳴る音が聞こえてくるようになったりする。つまり「環境音を聴くということはどういうことか」が、分かってくる。時折、彼が静止して、何も音を発さなくなる瞬間がある。すると通常「無音」と表現する静寂が訪れるのだが、本当の無音ではない。少し聴き方を学んだ僕らの耳は、空調設備の音、誰かの呼吸音、建物が軋む音、閉じた窓の外で広がる沢山の自然と生活の営みの音を捉えていく。作為的に音を出さずとも、音を楽しむことが出来る。広義の「音楽」であり、「音楽」の根本(≒メジャーな部分)であると言える。

通常、演奏会では、目の前の楽器の音色に聴き入ると、他の音などほどんど気にならなくなる。聞こえているけど、聴こえていないのである。しかし、彼のパフォーマンスはその聴覚機能(※1)に逆行する。背景と化した様々な音をどう聴かせるか、僕らの視野の狭い耳(変な表現!)をどちらに向けさせるか、ということを常に考えているように見える。

環境音をBGMとして聴く人は少なくない。森の中で、木々の揺れる音と鳥や虫の鳴き声に耳を澄ませる。川辺や海辺で、水の流れる音や魚が跳ねる音に耳を澄ませる。祖父母の家で、つけっぱなしのテレビの音や扇風機の音、風鈴の音に耳を澄ませる。外では2匹の猫が会話していて、次第に遠くから軽トラの音が近づいてきて、家の勝手口を開ける音がして、(多分、祖父の)足音が聞こえる。ある程度常態化した音は環境音に成り得る。それはきっと生物本能的に安心できる状態になるから、リラックス効果があるのだと思う。環境音は「背景化」したとき聴こえなくなるのだが、なにか些細な変化によって「表面化」したとき、「音楽」になるのである。(※2)


僕は先日、ジャズをメインに活動する友人のライブに行ったのだが、その「環境音」と「音楽」の狭間を彷徨う経験をした。それをライブ後に直接友人に話すと、喜んで聴いてくれたのだった。

その日は暗い雲が空を覆っていて、雨だった。僕は折角の東京遠征なのに、気分は鬱屈としていた。ズボンが湿ってて、心地よい散歩では無かったが、最寄り駅を降りて少し歩いて、会場のカフェに着いて、その友人に会ってやっと気分を持ち直したのだった。
演奏者2人をかぶりつきで見られる、窓際の特等席に座ってライブを観た。音楽的な知識はあまり無いので正直分からないが(申し訳ない)、テーマとなるメロディを基に即興的に演奏していた気がする。ただ、それは一般的に想像するようなメロディラインではなく、予想できない変則的な雨垂れのような音楽だった。窓際席の僕の視界には、外の景色も見えていて、雨粒が窓に当たり、流れて線を形成していき、外を歩く学生の黄色いレインコートや男性の黒いコートと黒い傘が視界の端でチラチラしていた。彼らの楽器を操る指や息遣いは繊細かつ大胆で、机上のコーヒーの湯気と匂いが漂っていて、床が振動していると思ったら、客の誰かが足でリズムを取っているのが見えて、そういえばこのカフェの雰囲気良いなとか、ぬくもりと湿気があるなとか考えて、外を通った夫人2人の甲高い声が聞こえたりして、あれ、演奏が静かになってきたなと思ったりして・・・。意識をサインカーブで描いた時の、プラスの部分が演奏を「音楽」として聴いている状態で、マイナスを「環境音」として聴いている状態と表すような、狭間を行き来する経験があったのだった。それら全て含めて、良いライブだったなと思ったのである。即興が持つ寛大な受容性だと思った。それをどのくらい彼らが意図してやったのか、僕が勝手に解釈しているのかは、分からない。

ある意味、環境音は繊細な存在である。すぐに音楽になりやすいし(というかずっと音楽)、背景化して聴こえなくなってしまう存在でもある。松本さんの耳はずっと前者の状態なのかもしれないなと思いながら、パフォーマンスを観ていた(聴いていた)。その聴き方に倣って、僕らも耳を傾ける。すると、身の回りに多種多様なメロディがあって、予測不可能な音楽を形成していることに気付くのである。


ところで、僕が見たパフォーマンスは、身体表現者とのコラボだったり、台詞や動きを伴う演劇的な構成でコラボしていた。友人のライブの例でもそうだが、視覚やその他の情報からも音楽を捉えることが出来る。点滅する信号や歩行者の足はリズム的で、漂う匂いや演奏者の身体やそれら全てを捉える僕らの知覚と感情はメロディライン的である。休符は静寂という音で、騒がしいほどの環境音が強調される瞬間である。そう思うと、すべての現象が愛おしくなってくるのではないだろうか。

僕は、最近ハンディレコーダーを買ったのだが、早くこの記事を書き終えて出掛けたくなってきた。マイクを持って街を歩くのは見た目として少々抵抗があるのだが、実は相当楽しいことに気付き始めたのである。では。


(※1)聞こえてくる音を無意識的に選択し、認識することを「カクテルパーティー効果」という。ここで聴覚機能と記述しているが、そもそも生物は本能的に「変化」に対して敏感なので、聴覚に限った機能ではない。どこにフォーカス(注意)するかで認識レベルを変えることが出来る。(=選択的注意)これを操るのが、演出するということであると思う。
(※2)全ての聴く音は「音楽」に成り得る。その音が心地よい音か、そうでないか、どう捉えるかは別の問題。では、音楽の定義とはどういうことかという議論は、また機会があれば。

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