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パントマイムは「"普通"の共有」

パントマイムを知らない人はいないと思う。見えない壁、動く床、意思を持った鞄。舞台や街中で見たことある人は多いはずだ。僕はいつかマイム作品を作ってやろうと思っているのだけど、周りでやっている人がいないので、なかなか計画出来ずにいる。石川近郊で探しています。連絡下さい。

パントマイムは客との「"普通"の共有」の上で魅せる表現だと思っている。つまり、壁は平らで垂直に立っているもので、押しても引いても動かないものであったり、歩く動作は前重心で足を出した方向に進み、進行方向とは逆の方向に蹴り出しながら進むということであったり、鞄は意思を持って勝手に動いたり、重くなったりしないということである。そんな誰もが無意識レベルで持っている"普通"を、パフォーマーと客で共有しているからこそ、目の前で起きるあらゆるパフォーマンスが不思議に見えるのである。

その"普通"は"普通"過ぎて言語を超える。所謂「ムーンウォーク」を見て、足が前に出ているのに後退する不思議さを感じない人はいないように、世界中の人が持つ"普通"だからである。だから、言語に囚われないノンバーバルでの表現が可能となる。これは、結構すごいことだと思う。2020年東京オリンピック開会式では、競技種目のロゴをモチーフとしたパフォーマンスが行われたし、パラリンピックではいいむろなおき氏などマイムアーティストが活躍していて感激したものである。当然ながら"普通"にもレベルがあり「お茶をたてる動作」はある程度日本を知らないと伝わらないと思う。逆に「刀を振る動作」は象徴的なので「SAMURAI」として伝わることだろう。

広義のパントマイムは、何かそこにないものを身体で表現すること言って差し支えない。身振り手振りである。ジェスチャーである。何かを演じなくても、僕たちは日々マイムをやっており、それは言語とは別に相手に伝えるための手段になっている。すなわち「非言語コミュニケーション」である。

芸術において考えてみる。言語を使えば、その言語を使う人同士での詳細な意識共有は可能である。しかし、言葉とは1つ1つの物事に名前を付けたものであるので、時にどんな組み合わせでも表せない場合や、伝わらない場合がある。以前書いた「カテゴライズできないもの」の話と似ている。対して、パントマイムのような「非言語コミュニケーション」はある意味シンプルである。その物事に対しての感じ方は受け手に委ねられる分、表現そのものがダイレクトに伝わる。演劇や文章は言語に囚われがちであるが、そもそも音楽や絵画等は言語を必要としないことが多い。「非言語コミュニケーション」で用いられる方法は、僕たち人間に基本装備されている唯一の共通言語である。そう考えると、パントマイムはとても魅力的な表現なのではないだろうか。

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