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酒の神


 剣士が一人、夜闇を歩く。既に月は昇り切り、そこらで騒がしかった多くの店も灯が消され始めた頃。ますます冷え込んできた夜風にフォロゼ式外套と波打つ漆黒の頭髪を揺らし、隻腕剣士グリンザールは道行く人に紛れ、街の片隅にある小さな酒場へと向かっていた。

「おおい、竜の仔」酒場近くまで来たグリンザールの耳に、聞きなれた男の声が入ってくる。グリンザールは酒場の壁によりかかって蹲る灰毛長髪の隻眼詩人を見出して、その傍まで歩み寄った。

「ゼウドよ。その顔を見る限り、随分と飲んだようだな」グリンザールはゼウドを見下ろして云った。「いやなあ、あの酒場、腕のいい鍵盤引きがいてよお。俺も、ついつい……張り合っちまった」寒気を感じるのか、自身のロードトック式外套に包まりながら云って、ゼウドは首を巡らし白い歯を見せる。だが顔は赤く、視線もどこか定まらない。

 その様子に溜息一つついて、グリンザールはゼウドに手を貸して立ちあがらせた。そして左肩を貸してその体を担ぐと、宿への帰路を歩み始める。既にこのような、ゼウドを抱え這う這うの体で道程を行く事はグリンザールにとって慣れたことであり、楽ではないが、特別苦心する程の事でも無かった。しかし此度ゼウドは口だけではなく、その全身から普段以上に酒の臭気を漂わせており、グリンザールもそれに僅かに顔を顰めた。

「……なあ、グリンジよお」「何だ」不意にゼウドが口を開く。その言葉と共に発せられたアルコール臭に、グリンザールは眉を顰めながら返した。

「お前曰く、世の中にゃいろいろ神が居るって云うがよお。酒にもよお。お前の言う神様はいるのかあ?」普段より、神秘など有りえぬといって憚らぬゼウドは、しかしこの一時の慰めをグリンザールの神秘の知識に求めた。彼にとっては何の話であってもよかったのだが、自身から話かけねばグリンザールは口を開くことなく帰路を行くのだろうと考えた。ゼウドは、酒によって引き起こされた頭痛を紛らわせたかったが故に、珍しく、グリンザールのもっとも食いつくであろう話を振ったのだ。「……ああ。善くも無ければ、邪神と言われるほどのものでもない、ありきたりな神がいる」グリンザールはそんなゼウドの様子を気にすることなく、淡々と自身の知識を語り始めた。

「北方の神話においてラザドと云う名で書に記された神だ。月の軌跡をなぞる、竜たてがみの星座に象徴されている。銀月を司るレリス神と赤い月のルディア神、彼女らの兄であり夫でもあり、古くより酒の……正確には酩酊の神として伝えられてきた」「うえ、男神かよ」「それは重要か? まあ、探せばどこかに酒の女神もいるやも知れんぞ」「探さねえよ」男と聞いて催していた吐気を少しばかり強くしたゼウドを横目に見るも、すぐに興味を失ったように、グリンザールはラザドなる神について話し始めた。

「ラザド神は妻である二人の女神……一人の女神の別側面ともされているが……彼女らのように、穏やかさと荒々しさを併せ持つ、律儀だがどこか気まぐれな神とされている」「へえ」「イスギールに近しい地域では、酒は熱を齎す故、命を齎す神としての側面も持つと言われていると記されていた」「そんで? 何か逸話はあんのかい?」グリンザールの披露する知識に、面白半分、そしていつもの呆れ半分といった様子で、ゼウドはその神の逸話についてを求めた。

 それは、物語を謳う吟遊詩人ゆえか。ゼウドは神の来歴よりも、何らかの『面白い話』を聞きたがった。それを聞いてグリンザールは、少し考えるように自身の影に目を落とす。それからまた少しして、グリンザールはラザド神の逸話について語り始めた。

「一つある。神話に記された争いより以前、宴に供する酒を大神ボフォロに請われたラザドは、妻たちの涙といくつかの果実より神酒を作り、十五日の道程を以って大神の元へと運んでいた。だが、道中、よからぬ者に出くわした」「誰だよ?」ゼウドは、らしく無くグリンザールの話に真面目に聞き入っていた。

「<燃ゆる髪のオルチャ>。北方神話において右に出る者無き邪剣士。まごう事無き邪神だ。……戦帰りのオルチャは二つの酒樽を担ぐラザドを見て、自身にその酒を差し出すように求めた。それに対してラザドはボフォロに供する酒だとして何とか見逃して貰えるように頼みこんだ。しかし」「まあ、ダメだよな」

「うむ。それ所かオルチャは敵対するボフォロへの酒と知って、更にその酒を奪いたがった。ラザドにとっては堪ったものでは無い。何せ大神たるボフォロは比類なき炎の神。万一その機嫌を損ねれば自身を灰へと帰されてしまうのでは、と恐れを覚えたのだ」「おいおい、それじゃあどうすんだよ。おるちゃ、ってのは剣の邪神だろうに」深刻ぶって言うグリンザールに、ゼウドはどこか心配そうに尋ねる。

「ああ。オルチャの剣は山さえ砕くと言われた。ラザド神など、容易く斬り殺せただろう」グリンザールはゼウドの疑問に、『オルチャは剣の邪神というより邪神の剣士だ』と暗に云いながらも肯定した。「そんでどうなったんだ?」そうとは知らず、ゼウドはその先を聞いた。

「ラザドは賭けに出た。自身の持つ酒樽の一つを天に掲げ、オルチャに向かって思い切り『くれてやった』。オルチャは咄嗟にかかえたる邪剣オゴ=ロドラムにて樽を真っ二つに断ち切ったが、中の神酒を頭から浴び、その天上の味と強さに一気に酩酊し膝を着いた。その隙にラザドは全力で逃げ出したのだ」「意外とやるじゃあねえか!」グリンザールの語るどこかやけっぱちめいたラザド神の行動に、今やゼウドは酩酊に沈みかけていた眼を少年めいて輝かせていた。

 それに対してグリンザールは、嘗て読んだ古書の記述を思い出しながら、どこか懐かしむように目を伏せて云った。「しかしオルチャもさる者。これほどの酒を逃してなる物か、と己を強いて立ち上がった。だが彼は次の瞬間、ラザドを追う所では無くなってしまう」「何だ何だ、もったいぶんなよ竜の仔!」

「オルチャは遠ざかるラザドを追わんとその健脚に力を込める。しかしそこで、常より自身が垂れ流す黒煙とは違った臭気を感じて足を止めた。そう……奴は<燃ゆる髪のオルチャ>だ。その自慢の髪によって、浴びたラザドの酒に火がついてしまったのさ」そこまで云って、グリンザールはその話を区切った。

「……おい。おいおいおい待てよグリンジ。<燃ゆる髪>ってのは、比喩とかじゃあねえのかよ? マジで燃えてんのか、そいつ? その、オルチャって奴の頭は!」まるで酔いが覚めたように、ゼウドはグリンザールを問い正す。それに対して、グリンザールは普段の涼しい顔で答えた。「当然、諸説ある。しかしこの話においては、本当に燃えていたらしいな」ゼウドはそれを聞いて、何やらげんなりした顔で眼を細め、それから一つ、大きく溜息をついた。

「……なあグリンジ、やっぱお前、子守とか、詩人に向いてるぜ。そういう話を謳わせたら右に出る奴ァ居ねえよ。俺もその話を聞いてたら、いい感じに眠くなっちまいそうだ」どのような顛末を想像していたのか、また眠たげな顔に戻ったゼウドは皮肉めいて云った。「ラザド神は酩酊の神であると同時に、夢と眠りの神でもある。眠ってしまっても構わんぞ」

「やなこった。肩ならともかく、お前に背中まで貸されでもしたら、寝覚めが悪いなんてもんじゃあねえ」グリンザールの提案を聞いたゼウドは下を向いたままに、幾らか調子を取り戻した様子で云った。顔にはまだ赤みは残っているが、少しは酔いが覚めてきたようで、その視線も定まってきている。グリンザールは、そんなゼウドの言に僅かに諧謔的な笑みを浮かべて云った。「如何せん、その赤ら顔で言われてもな。俺の話以上に説得力が無かろうよ」

「うるせえ」グリンザールの皮肉にゼウドは笑って云うと、その身を彼からもぎ離し、フラフラとした足取りで、しかし真っ直ぐに帰路を歩み始めた。その背中を見てグリンジは、呆れたように鼻を鳴らして詩人の背を追うように歩み出す。


 そして剣士と詩人は、夜闇に紛れて消えて行った。


 了

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