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死に餓えるは、蛮勇なるか

 最初にやって来たのは、熱さ。
 自分の血の熱さだと気づくのに、数瞬の間。
 痛みは遅れて訪れた。

 小汚い廃工場。地面に転がりのたうち回る俺を汚い足で踏みつけると、ガドウは下衆野郎のお手本みたいな笑顔を浮かべた。俺は切られた顔を右手で押さえながら、必死にヤツの顔を睨む。今の俺に出来る、唯一にして精一杯の抵抗だ――心底ムカつくことに奴の、我童<ガドウ>の嗜虐心を少々強める程度の効果しかなかったが。俺を踏みにじる足――醜く膨らんだ脂肪の塊だ――にこもる力が増していく。圧を受けた俺の口から、出したくもない苦悶の声が絞り出される。

 畜生。

 策は完璧だった。取り巻きも連れずこの裏路地にのこのこやって来たガドウは、俺と弟と仕掛け罠の多重攻撃を受けて、無様な死に様を晒しているはずだったのに。だが気づけば俺はこのザマで、弟は向こうで三匹の戦豚<ウォー・ピッグ>の餌と化している。

 畜生。畜生。

「よう、口は聞けるかオメエ」
 ガドウがニマニマと笑いながら俺に問いかける。歪んだ唇から黄ばんだ歯が見え隠れする。胸の辺りがムカついて仕方がない。
「正直よお、心当たりが多すぎて分かんねえけどよ……オメエ、何処のドイツの差し金だあ? ”三本指”の森羅<シンラ>か? ”忌み子”の姫条<キジョウ>か? それともまさか、”黒神”闇唆<アンサ>か? へひひ、そんな大物に狙われたんだとしたら俺様も、いつのまにやら随分名が売れていたってことだぜ」

「俺は……俺だ」
「あん?」
「俺は誰の刺客でもない。誰の命令を受けた訳でもない。俺は俺の意志で、テメエの命<タマ>を取りに来たんだ。”魔畜”のガドウ」

 ふと、背中に受けていた圧迫感が消える。ガドウが俺を踏みつける足を浮かした――そう気づいた瞬間、背中に強烈な衝撃が叩き込まれた。
「か……はっ!」
肺の中の空気が絞り出される。あまりの苦しさに目の前が暗く染まっていく。
 ガドウはじっくりと俺の背中を踏みにじり、再び足を浮かす。
「俺の」衝撃。「意志」衝撃。「だあ?」衝撃。
 苦しさで消えそうになる意識が、痛みで無理やり引きずり起こされる。それが何度も何度も繰り返され、俺は自分の胸から抵抗の意志が薄れゆくのを感じ取る。流したくもない涙が溢れ、顔の血と混ざり合う。

 畜生。畜生。畜生。

「てことは何だよオメエ、刺客でもなんでもない、ただの雑魚かよう……まあそうだよなあ、オメエ刺客にしちゃあ、弱すぎだもんなあ」
「糞野郎……とっとと……殺しやがれ……」
「ああ、殺すよお」

 ガドウは、玩具<おもちゃ>に興味を失ったガキみたいな声色でつぶやく。
「言われなくても殺すよお。俺は俺の命を狙ったもんには容赦しねえんだ……けど、残念だったなあ糞餓鬼。お前にゃお前の、それこそ命を掛けちまうようなナンカがあったかもしんないけどよお」
 ガドウが俺の顔を覗き込む。眼と眼があった。昏い瞳。底無しの孔。
「俺はそんなこと知らねえまま、お前を殺す。そして殺した瞬間、お前のことは綺麗サッパリ忘れちまうだろうぜえ。もちろん、あちらで俺の可愛いペット共の餌になっちまったお連れさんのこともな。わかるか糞餓鬼?」

 ガドウは汚らしい歯を剥き出しにして、下卑た笑みを浮かべた。
「お前の事情なんて――俺には豚の糞ほどの価値もねえってことだよお」
 後に続く、長ったらしく不愉快な笑い声。人の無様を心底愉しんでやがる糞野郎の笑いだ。俺たちの親父を殺したときも、こんなふうに嗤いやがったのだろうか。
 畜生……! 畜生……! 畜生……!

 呪いの言葉を何度も何度も繰り返しながら、俺の意識は暗い暗い闇の底へ引きずり込まれ――

 

しゃりぃん。しゃりぃん。しゃりりぃん。


 ――鮮烈な音色に引きずり戻された。

 俺とガドウは、同時に音の方を見る。視線の先には、暗い闇。
 その闇の中から、ぬるりと這い出してきた、一人の男。
 陰気な男だった。黒衣の上から袈裟をまとい――そのどちらも、みすぼらしいボロ布としか思えなかったが――手に持つ錫杖を地に突き立て歩く。そのたびに、周囲に凛とした音が響く。

 しゃりぃん。しゃりぃん。しゃりりぃん。

 雑に丸めた頭。やはり坊主なのだろうか。そして顔には、血のような赤色の紋様。後で聞いたが、その紋様は「文字」ってものらしかった。その「文字」はこんな形をしていた――『死』。

 しゃりぃん。しゃりぃん。しゃりりぃん。

 坊主は、ゆるりとこちらに近づいてくる。そのただならぬ雰囲気に、ガドウが僅かながら気圧されていたのがわかった。
「なんだあ、お前誰だよお?」
「拙僧か? 拙僧は刺客だ」
「……ああ?」
「なんだ、意味が分からぬか? 拙僧は、さるお方の依頼により”魔畜”のガドウ、貴殿の御首<みしるし>頂戴に参った刺客である」

 言うなり、坊主は錫杖を一際強く突き立てる。しゃりぃん!

「大人しく渡すとあれば、痛苦無く殺してしんぜよう。但し、拙僧はこう見えて武人の気質を備えておってな。無抵抗の弱者をいたぶるが如き所業は好まぬのだ」
「……テメエ」
「できれば、抗っていただきたい。貴殿の全力を持って抗っていただきたい。さすれば拙僧は、敬意を持って貴殿に相対し、総力を持って貴殿を叩き伏せることを約束しよう」
 淡々とそう告げた坊主は、薄い笑みを浮かべた。
「何せ、拙僧は坊主。嘘はつかぬよ。冗談は好きだがね」

 俺の背中から、ガドウの足が外れ――たと思った瞬間、側の地面が爆発した。ガドウが坊主に向かって突撃したのだ。
 ガドウは豚のように膨らんだ巨体からは想像できない疾さで――俺と弟の奇襲を、鼻歌でも歌うかのように軽く躱したその身のこなしで――坊主との距離を詰める。その拳には猪の牙のような刃物が二対。俺の顔を切り裂いた得物。傷口がずきりと疼く。ガドウは刃を突き出す。突進の勢いを乗せた突きは、必殺の威力で坊主に襲いかかり――錫杖にあっさりといなされた。金属のかち合う音が、廃工場に響く。

 ガドウは一撃目をかわされたことなど意に介さぬ勢いで、そのまま両手の刃を振るい続ける。速く、速く、より速く。刃と錫杖、二つのぶつかり合う音が次第に勢いと速度を増していく。もう俺の目では追えなかった――その事実に、俺は唇を噛む。

 だがガドウの恐るべき連撃、そのことごとくを、坊主は錫杖をくるくると器用に廻しながら受け、払い、止め、軽々と躱しているように見えた――そして挙句の果てに、したたかにガドウの額を打ってみせた。

「い、痛え! 痛えじゃねえか!」
「当然である。その痛みは、拙僧の怒りと失意の表れと知り給え」
「怒り……だとお?」
「然<しか>り」

 坊主はまたもや勢いよく錫杖を突き立てる。しゃりぃん!

「拙僧は申したはずだ。全力で抗い給え、と。しかるに貴殿は、その真なる力を隠したままではないか――全く、下手な遠慮はいらぬと申しておるのだ。いいから疾く疾く”変化<へんげ>”するがよい」

 ”変化”。その言葉を坊主が口にした途端、ガドウの纏う空気が明らかに変わった――特濃の、漆黒の、殺意。

「坊さんよお……俺の聞き間違いじゃあなけりゃあよお……あんた今、俺に”変化”しろって、言いやがったのかい……?」
「無論だ。疾くし給えよ……そうでなければ抗えぬことは、先程の斬り結びにて理解ったであろう?」

 それには応えず、ガドウは両手をだらりと下げ――体をひくつかせ始めた。いや、笑っているのだ。それはさきほど俺に向けた嗤いとは、違う質の笑いだった。

「へへ……坊さんよお、あんたの言うとおりだ……あんたの強さはよおく理解った……確かにこの姿のままじゃあ、らちが明かねえかもしれねえな……」
「しれねえな、ではない。良いから早くするが良い」
「後悔するなよ、糞坊主ぅ!」
「せぬから早く」

 ガドウの体が、爆発した。
 いや、違う。爆発したように膨らんだのだ。縦も横も2メートルをこすガドウの巨体が、瞬時に倍加。のみならず、全身を獣の如き剛毛が覆い始める。二本の牙が、汚らしい口から敵を威嚇するように突き出た。
 巨大な、人の姿を模した、猪。

「ぶは、ぶは、ぶははははあ! もう、もう、止まらんぞ、止められねえぞお! この姿になった俺様は、何人たりとも止められねえぞお!」   

 そう言って猛り狂う姿は、恐怖そのものだった。俺は、股ぐらに生暖かいものがあふれるのを止められなかった。

 だがそんな化け物を見て、坊主は何故か笑いながら、満足げに深くうなずいてみせたのだった。
「良し」

 そうして三度、錫杖を地面に、強く強く突き立てる。しゃりぃん! 
 勢いよく地面に突き刺さった錫杖は、坊主が手を離してもそのまま直立したままだ。
「良し、良し、それで良い。これで拙僧も」
 自由になった両手を、翼のようにゆるりと広げ。
「遠慮なく、本気を出せるというものよ」

 坊主の顔の紋様が蠢き始めたのを見て、とうとう幻覚が見え始めたのかと思った。だが違う。そうじゃない。
 『死』の紋様はまるで生きているかのように揺らぎ、坊主の顔中に広がり始める。赤い色彩と相まって、まるで坊主の顔が炎と燃えているかのようだった。

 変化は顔の紋様だけにとどまらない。坊主の全身が、それこそ炎のように赤く赤く染まっていく。両の足が大樹のように、両の手が神柱のように、恐るべき力を蓄えていくのが理解った。

 やがて『死』の紋様、上部の横棒が大きく左右に伸び始め――あろうことか、顔をはみ出してもまだ伸びることを止めなかった。棒は顔の倍も伸び、そのまま天を突くように上向きに曲がり――

 『鬼』。その場に現れたのは、そうとしか言いようもない存在だった。『鬼』は嬉しそうに息を吐き出すと、握った拳を魔猪に向けて見せる。

「さあ、待たせたかな猪殿。続きを始めようではないか」
「ま、まち、待ちやがれ! 待てってんだ!」
「何だ、興を削ぎおるな……一体どうしたというのかね」

 ガドウはその巨体をわなわなと震わせながら、坊主に問いかけた。
「てめえ糞坊主……なんでお前、そんなふうに”変化”できるんだよお!? ”変化”は俺たち”十二支徒”にだけ許された、特別な力」
「増上慢」
「ああ? ぞう……何だって?」
「増上慢、と申したのだ。『”十二支徒”にだけ許された、特別な力』? 否、否、断じて否。単にお主が知らぬだけ、知らされておらぬだけのこと。湖沼の如き狭い見識で、大海を測ってはならぬよ――まあ、そんなことより、だ」

 『鬼』は亀裂のような笑みを浮かべると、両の腕を挑むように大きく広げた。
「”変化”した者が二人相対しておって、問答に励むという手もあるまい? 為すべきことを為そうではないか。もし、拙僧の姿が恐ろしくて手を出せぬ、というのであれば是非もないが……音に聞こえた”魔畜”のガドウが、まさかそんな腑抜けた、女童のようなことは言うまいな?」

 その言葉を聞いた途端、ガドウの表情から戸惑いが消えた。その代わりに浮かび上がってきたものは――誇りを傷つけられたもの特有の、激しい怒り。
「上等……上等だてめえ! そのぺらぺらよく回る口ごと、ひき肉にしてやらあ!」  
 そう吠えて、『鬼』に掴みかかる。『鬼』に倍する巨躯を持って、一気に敵を押しつぶしてしまおうとする。二体の異形がぶつかり合い、その衝撃が廃工場を盛大に揺らす。
 ガドウの目が、驚愕に見開かれた。
「なんだ……なんなんだてめえ!」
 『鬼』はガドウを完璧に受け止めて見せていた。巨岩の如き体躯の突撃を受けて、『鬼』は最初の立ち位置から一歩たりとも退かずにいたのである。

「ガドウ殿、貴殿も全くお人が悪い。拙僧は先刻から何度も何度も申しておるではないか――『全力で掛かられよ』、と。この期に及んで手加減とは……全く興を削ぐのがお好きな御仁だ……」
「な……なにを……」
「……まさか、まさか、まさか貴殿!」

『鬼』は驚愕の表情を浮かべながら、絞り出すように言った。
「たかがこれしきが全力と、まさか言うつもりではあるまいな!」

「な……な……」
「なんと、そうであったのか……此度の相手は音に聞こえた”十二支徒”、その一角。そう聞いてどれほどのものかと期待しておったのだが……いやはや……噂というものも存外、当てにならぬものだということか」

 そう独りごちると『鬼』は無造作に、ガドウの腹めがけ拳を突き入れた。

「ぐ、ぐはあ!?」
「興醒めだ、実に興醒めだ」
 右の拳を引き抜くと、続けて左拳を突き入れる。続けて右拳。左拳。右。左。何かの作業のように、淡々とガドウの腹に突き込んでいく。その度毎にガドウの血が、肉が、臓物が撒き散らされる。

「や、やめ……やめろお……やめてくれえ……」
「悪いがそれは出来ぬよガドウ殿。心躍る闘争が出来ぬと理解った以上、依頼だけでも確<しか>とこなしておかねばな。拙僧も、遊びで此処まで参った訳ではないのだ」
 そう言いながらも『鬼』は動きを止めない。右。左。右。左。両の腕が、肘まで血肉に染まっていく。やがてガドウはその巨躯を大きく痙攣させ――膝から崩れ落ち、二度と動かなくなった。

 『鬼』はわざとらしいため息を一つつくと、先程突き立てた錫杖に手を触れた。その途端、『鬼』の体に変異が起こり――見る間に『鬼』は、元の僧形を取り戻していた。

「全く、期待外れも甚だしい……こうなれば、依頼金を多少吹っ掛けてやるとしようぞ。その金で多少旨い酒など飲まねば、やってられぬというものだ」

 坊主はそうぼやきながら――俺の方に近づいてきた。体が、緊張で固まるのが理解った。
「で、お主は何者だ? 童が一人で――いや、二人か――”十二支徒”に挑むなど、流石に酔狂が過ぎるというものだが」
「俺は……俺達兄弟は、仇討ちに来たんだ……アイツは、ガドウは、おれたちの親父の仇だったんだ。だから、俺の手で殺してやりたかったのに……」

「ふむ、なるほど……ということは拙僧は、お主の仇を横取りしてしまったことになるという訳か」
 坊主は何か考えている様子だったが、急ににんまりと笑ってこう言った。
「ではこうしよう。お主は拙僧と共に来るが良い。そして機会あれば拙僧に挑み、そして拙僧を殺すのだ」
「……は?」

「何だ分からぬか? つまりだ。拙僧はお主の父の仇であるガドウを殺した。ということは、だ。次にお主が拙僧を見事討ち取れば、間接的にではあるが敵をとったということになるではないか。そうさな、なんとなれば拙僧を討ち取るための手練手管を、手取り足取り懇切丁寧に教授してやっても良いぞ……とは言え、流石に”変化”の秘術まで教えることは叶わんが。これは、秘中の秘であるがゆえ」
 ……何言ってんだ、こいつ。頭湧いてんのか?

「何言ってんだあんた。頭湧いてんのか?」
「思ったことをそのまま口にするのは控えたほうが良いぞ?」

 仇が急に消え失せてしまって、そしていろんな事が一気に起こりすぎたせいで、俺の頭はまともに働かなくなっていたのだろうか。俺は坊さんがなぜだかかわいそうに思えてきてしまっていた。この坊さんは要するに敵が欲しいんだ。戦いに飢えていやがるんだ。今日出会ったばかりの俺を、将来自分を殺させるために面倒見るなんて、世迷い言を抜かすほどに。

 なんにもなくなった俺が、その穴を埋めてやることが出来るのなら。

「分かったよ坊さん。あんたについていくよ。そしていつの日か……あんたに挑んで、そして殺してやるよ」
「おお本当か! それは重畳。いつの日になるか分からぬが、その日を楽しみにしておこう……そうだお主、名は何というのだ?」
「人に名を尋ねるときは、自分がまず名乗るのが礼儀ってものだろ」
「おお、これは失敬。お主の言うとおりだ」

 坊主は自分の額をぴしゃりと打つと、俺の目を真っ直ぐ見て言った。

「拙僧の名は死餓<しがつ>。よろしく頼むぞ少年」
「俺は麦香<ばっか>。少年じゃねえ、俺は女だ」
「なんと、これは迂闊だった」

【続きません】

そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ