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終の棲家

 電話口から、「末期癌」だの「来年まで持たないかもしれない」だのいう話が聞こえてきたとき、僕は生まれてはじめて「膝から崩れ落ちる」という経験をした。先週のことだ。

 次の休みの日、僕は実家に帰っていた。母の「終の棲家」を準備するために。最期は自宅で迎えたい、という母の希望を叶えるために。

 来客用の部屋を片付け、そこにベッドを置くらしい。とりあえず、余計な家具やら置物やらを、父と一緒に別の部屋に運び込む。日頃使っていない筋肉が、早速悲鳴を上げ始める。情けない。もともと力のある方ではないが、年齢のせいか運動不足のせいか、非力に磨きがかかってしまっているようだ。父に苦笑されてしまった。

 数時間の格闘の後、だだっ広い空間ができあがる。業者に声をかけ、真新しいベッドが運び込まれる。非力かつ素人の僕などと違い、実にテキパキと、手慣れた感じでベッドが設置されていく。

 出来上がったそれを見て、なんだかベビーベッドみたいだな、などと思ってしまった。ゆりかごから墓場まで、なんてフレーズが頭に浮かぶ。すぐに打ち消す。縁起でもない。母はまだ生きているのだから。

 電話があってから、母とはまだ顔を合わせられていなかった。退院して家に戻ってくるのは明日。家で待ち受けたいところではあったが、勤め人の悲しさ、帰ってくる時間には出勤していなければならない。血もつながっていないお客様相手に、笑顔で元気よく対応しなければならない。

 クソくらえ、と思う。

 だが、母ならば「そんなことは当たり前」というかもしれない。なにせ人一倍、他人のことを思って生きてきた人だ。家族のことを思い、親戚のことを思い、友人のことを思い、ご近所さんのことを思い、そうやって生きてきた人だ。

 そんな人間が、幸せな余生を生きて、眠るような幸福な死を迎えるべき人が、末期癌の苦しみにさらされているのだ。もう次の年を迎えられないかも知れない、などと宣告されつつ、それでも生きているのだ。

 理不尽だ。

 だが、心の中の冷静な部分が、「世の中なんてそういうものさ」などとしたり顔で囁いてくる。そうだ、世の中そういうものだ。永遠など、この世にはない。人はいつか、必ず死ぬのだ。僕も、父も、妹たちも。知っている人も、知らない人も、みんなみんな、いつかは必ず骨となって、煙となってしまうのだ。

 だから、どうした。

 僕はこの、僕の中にある冷静な部分が大嫌いだ。反吐が出る。殺してやりたいとさえ思う。だがそれは叶わない。これも僕の大切な一部なんだ、などと解ったような顔をして抱え込んでいかなければならない。

 クソくらえ、と思う。クソくらえ、と思う。

 母からLINEでメッセージが送られてきた。片付け作業をした僕を気遣い、感謝を伝えるメッセージだった。僕はどんな顔をして、そのメッセージを見たのか。僕にはわからない。

 夕飯を食べていけ、と父が言ったので、久しぶりに家族と食卓を囲んだ。鍋だった。僕が帰ってくるからと用意したそうだ。僕と父、そして妹二人と一緒に鍋をつついた。

 皆、笑顔だった。笑いの絶えない食卓だった。こんなに楽しく食事をしたのは久しぶりだった。

 そこにいるべき人がいれば、なおのこと楽しかっただろうに。

 いや、違う。そうであれば、僕はいつもの帰省時のごとく、母のとりとめのない話をひたすら聞いて「あげる」役割を担っていただろう、そうして心のなかでは、もう勘弁してくれ、来年はいっそ帰ってこないでおこうか、などと思っていたことだろう。

 反吐が出る。

 食事が終わって、ふと仏壇に目をやる。祖母と祖父の写真が、並んで飾られていた。

 認知症になった祖父を家で預かり介護する、そう決めたのは母であった。母にすれば、当然の判断だったろう。祖母は亡くなって久しい。僕は施設に入れることを提案した。だが母は、断固として自分が面倒を見ることを譲らなかった。

 地獄の始まりだった。

 認知症に掛かった祖父は、よく言ってわがまま放題の子供であった。自分に都合の悪いことから忘れていき、そのたびに母と衝突していた。その当時、実家に帰省した僕を待っていたのはいつでも母の怒声と、怯えるような目をした「大好きなおじいちゃん」だった。

 そうこうしているうちに、上の妹が心を病んだ。母と祖父のやり取りに耐えかねたせいだ。職を辞し、薬が欠かせない体になった。

 たぶんこのときだったと思う。生まれてはじめて、人の死を本気で願ったのは。

 結局、疲れ果てた母は、祖父を施設に預けることにした。入所した祖父は急激に認知症を悪化させ、母の顔も、僕ら孫の顔もわからなくなり、眠るように死んだ。

 葬儀のとき、ボロボロと泣く母に声をかけながら、僕は内心全く違うことを考えていた。よかったねお母さん。やっと肩の荷をおろせるよ。だからこれからはどうか、自分のための人生を生きてください。そして、できれば長生きしてほしい。幸せな死を迎えてほしい。神様どうかお願いです、この人に幸せな人生を。どうか、お願いです。

 願いは叶わなかった。僕はもう今後一切、神に祈ることはしないだろう。

 居間のテレビが、スペインの食文化を放送していた。「死者の日」に振る舞われる伝統料理について紹介する内容だった。「死者の日」とは、日本のお盆のようなもので、亡くなったご先祖の霊が子孫の元を訪れると信じられている日なのだそうだ。

 ふと、テーブルの上を見る。母あてのダイレクトメールが何通か置かれていた。どの文面も、12月に誕生日を迎える母へのお祝いと、「良い1年を迎えられますように」とのメッセージが書かれていた。

 どちらも、普段なら大して気にもとめないものだっただろう。だがどちらも、僕はまともに見ることが出来なかった。

 きっとこうやって、僕にとっての世界が、いろいろなことの意味が、どんどん変わってしまっていくのだろうな、などということを考えた。

 まあしかし、そういう価値観の変転は、ある程度の歳月生きていれば必ず起こるものだとも言える。何も特筆すべきことではない、と言えるかもしれない。

 そうだ、特別なものではないのではないか。ではなぜ、そう考えたことが印象に残っているのか。もしや、「ちょっと気の利いたことを考えたな、僕」などと思ったからではないか。

 どうなのだろう。僕は今この瞬間も苦しんでいる母をさておいて、悲劇の主人公を気取っていないだろうか。なにかこう、自分の感情に「ブンガク的」な価値を見出そうなどとはしていないだろうか。冗談じゃない。

 もしそうだとしたら、それは「反吐が出る」としか言いようのないものだ。そうではないと思いたい。

 心の底から、そう願う。

 父から泊まってくように進められたが、残念、明日も朝イチで出勤だ、ということで自分の家に帰ってきた。PCの電源をつけたところで、発作のような感情に襲われた。何かを書かねばならない、そう思った。だからこうして今、とりとめもない文を書いている。

 もし、この続きを書くことがあるとすれば、それは。

 

 できれば、書きたくない。書きたくないよ。

そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ