西平守温(87) 聞き取り記録 その2


「はいはい、しばらくでしたねえ。今日は何から?」

「うちのおふくろはねえ、行商してたねえ。田舎から芋とか買ってきて、汀良町の市場に出したり、西原の幸地棚原くらいまで売りに行ったり。昔はね、今は汀良町と言っているけど、昔はてぃしらじ(汀志良次;記録者注)まちぐわぁーといって、今の首里中の後ろ、首里駅の下のところ、今、ローソンがあるでしょ?あの辺に小さいまちぐわぁーがあったわけ。あの辺に南風原新川とか近くの農家が野菜もってきよったりしよったわけ。今は区画整理でわからなくなっているけど、あの大きい道の後ろのところに川があって、あれが鳥堀と汀良町の境。ことばも違いよったよ。鳥堀はね、荒いの。」

「三箇はねえ、ニシカタ(首里城下、士分の住む地域)みたいにさむれーでもないし、平良とか畑でもないし、商売人とか職人とかだからねえ、パッパッパーとしないと怒られるわけ。だからだはずよ。」

「そうねえ、どんなだったかねえ。大体は前話したウフカクジャーから新川に下りて、南風原あたりに買い出しに行きよったね。たまには、玉城の前川あたりまで行くときもあったけど、こういう時は一日半日。早く行って、もう帰るのは日が暮れるくらい。」

「遠かったよ。子どもの足だからね。でも、親が荷物持ちなさいっていうから、行かんといけんわけ。それに、前川は親戚もいたし、たまには行きよったよ。」

「うん、うちはね、阿氏といって、前川殿内の門中であるわけ。あの、民謡の前川守賢っているでしょ、ゲンちゃん。あの人の家が本家。言い伝えだけどね、先祖は南山王の他魯毎らしいけど、これが尚巴志にやられた時に、子どもか弟か、どっちだったか忘れたけど、これが乳母に守られて逃げてから、後からこの前川とか南風原とかに領地をもらって、これが先祖になってるらしい。だから、南風原あたりとか首里には、戦前は遠い親戚はいたわけ。」

「そうねえ、貧乏ではあったけど百姓ではなかったみたいよ。うちのじいさんは明治のころに役所の小使いみたいなことしてたというから、字は読めたんだはず。あのころ字読める人はあまりいないはずだからね」

「うちのおやじはね・・・僕が小さい時に亡くなっているからねえ。あまり覚えてないねえ」

「戦争ではない。戦前に亡くなってる。肺じゃなかったかなあ。死ぬ前に、おふくろが栄養付けさせようとして鶏つぶしてスープ作って飲ませてたのは覚えてるねえ。」

「よくおやじにはくっついていきよったよ。天秤棒というのかな、あれに仕事の道具さげて、棚原あたり、あそこは家いっぱいあったからね。あそこで家回って聞くわけ、そしたら鍋の穴開いてるのとか、修理するわけ。内側と外側から小さい鉄板当てて、あれはどんなしたのかな、ボルトみたいなので止めたのか、小さいふいごみたいので火起こして溶接みたいにしたのか、もう忘れたけど、なーびぬくーの穴をすいすい直していくわけ、これが子どもには面白かったねえ。」

「あー、なーびぬくーというのは、鍋の底のこと。艦砲の穴とかもなーびぬくーと言いよったねえ、戦後は。ほら、鍋の形に地面に穴があいているでしょ?あれに水がたまるとプールみたいになるわけ。これが子どもの遊び場になっていたよ。」

「そうねえ、あれは淵から急に深くなるから、大きいのは危なかったねえ。」

「薬莢から火薬抜いてね、これに火つけて花火みたいにしたりね。あとは小銃弾、釘ぐわぁーで上手にお尻たたいたらビューって飛んでいくからね。こんな遊びしていたね。」

「そこら辺に落ちてたよ。人の骨も戦後すぐはあったよ。上等靴が落ちているねえと思ってみたら、足の骨が入ったとかね。そのまま死んだんだはずね。」

「今ではあれだけど、あの当時は普通だったねえ。それにほら、首里は激戦地だったから」

「僕は首里第一国民学校。今の城南小学校かな。あの時は、城の中に学校があったからね。あそこに前は首里高校のグラウンド、戦前は恩賜運動場といいよったはず。今は何があるのかなあ、最近行ったことはないけど。」

「そうそう、あの首里城の売店とかレストランがあるあのあたりだったかね。僕は反対側から入っていくから、赤田御門から入って行きよった。ここは王様の世継ぎが通る門だったらしいね。」

「ああ、正式にはそういうの? 僕らはあかたうじょうと言っていたから。して、この門入って学校に入ろうとすると、入り口にね、戦時中だから、ルーズベルトとチャーチルかねえ、大きい藁人形があるわけ。これに竹槍何回か刺してから学校行きよったよ。」

「小学校何年生だったかねえ。低学年よ。」



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