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『日々をつなぐ』特集5作品 感想

4/20(土)〜4/26(金)まで下高井戸シネマで実施された『日々をつなぐ』というドキュメンタリー作品の特集上映に参加しました。

特集概要

『彼方のうた』『偶然と想像』『すべての夜を思いだす』等で撮影を担当したカメラマン・飯岡幸子と、「肌蹴る光線」の屋号で映画上映・執筆活動をしてきた井戸沼紀美が企画する特集上映。90年代以降に制作された5作の記録映画、それぞれの編集の手つきから、映画はいかに「生活」を映すことができるのかを考えるプログラムです。上映は各2回、会期中はトークなどの関連イベントも実施。

http://www.shimotakaidocinema.com/schedule/schedule.html#hibiwotsunagu


3月に公開された清原惟監督作『すべての夜を思い出す』の映像美が印象的だった。無機質で淡々とした生活を繋ぎ合わせるようなドキュメンタリーチックなショットに惹かれて、その撮影監督である飯岡幸子さんが主宰される企画ということで、全作品観てみた。

とても素晴らしく貴重な体験だったので、ぜひ全国興行に発展してほしいという思いを込めつつ、二度と観られないような作品もあるので、感想をまとめる。


1.『ヒノサト』飯岡幸子監督

祖父が一人で手作りし、一度だけ回してその音を確かめ出征したという古い蓄音機の物語をきっかけに、監督は画家であった祖父の残した絵を辿って日の里の町を歩き始める。静かに映し出される町の風景。絵。そして挿入される小さな文字。画家のアトリエに光が射し込む時、流れる三つの時間がにわかに接近する。福岡県宗像市「日の里」で制作された、映画美学校ドキュメンタリーコースの修了作品。

絵画と実写とのショットが無造作に切り替わる合間、詩のような文字が挿入される。しばらくは観ていても何のことかさっぱりわからない。
すると、少し経ったあと、挿入される文字列に意味を見出せるようになる。もしかしてこの文章は日記か?と。日々の出来事を綴った文章に思えてくる。そうすると、無造作な絵画と風景ともリンクする。この絵を描いたひとの文章なのか。そのひとの暮らしていた地域の風景なのか。
生活を記録する手段として本来交わらないはずの日記とドキュメンタリーが、交差する。これはものすごい手法だと思ってて、記録映像ならば声だの姿だの、当人の情報を直接伝達することかできる。一方本作は祖父の記録映像なのにも関わらず、その輪郭は文字情報から想像するほかないのだ。逆にいうと、本人を物理的に知覚しなくても、その為人がありありと浮かび上がってくる作品になっている。
日記という日々の記録について考える。こないだ林芙美子の『放浪記』を読んで感銘を受けたばかりだ。そのひとのことを読む。それだけで周辺情報が鮮やかに想像できる。だれかのことを記録した映像作品で、まさか日記の追体験をすることになるとは。
ちなみにこの作品、filmarksでもヒットしない貴重作品のようだ。観ることができて本当に良かったと思っている。

2.『Oasis』大川景子監督

アーティストの大原舞と自転車愛好家の下山林太郎。2人は自転車でどこへでも出かける。首都高の高架下で自転車を降りた彼らはカメラを携え、川沿いから路地へと入りこむ。人知れず繁茂する植物やミクロの昆虫、ボラの稚魚が大発生する河面……見つけたモノたちはやがて舞の絵へと昇華されていく。後日、同じ場所に街の音を採集しにくる黄永昌。彼は本作品の音を担当する。出会うことのない2組の時間によって物語が編まれていく。

監督の大川景子さんのことは、同じく下高井戸シネマで実施された杉田協士監督特集のトークで知った。ファッショナブルな方というか、とても都会的な生き方をしているんだろうなあと思っていたところ、本作からもそのマインドをひしひしと感じられた。
自転車で移動するのっていいよね。そこそこ速くて、すぐ止まれて、ちょうどいい。ふたりの生活を縛るものは何もないように感じられて、ビルがひしめく手狭な港区、その巨大なバイパスの下に目を向ければたちまち自由が広がる。
まったくネガティブな作品ではないのだけど、目線を落として俯きながら東京を歩くことを肯定してくれたような気持ちになった。PERFECT DAYSのそれです。

3.『チーズとうじ虫』加藤治代監督

余命1、2年と言われた母と高齢の祖母とある小さな田舎の町で暮らす監督。実の娘である監督が切り取る映像の中には、母の闘病と気丈な祖母、すぐ隣に住む兄夫婦とその子どもたちの成長があります。家族との無邪気な日常生活や散りばめられた母の姿を通して、家族の愛情と温もりが記録されていくはずだったのに・・・。あまりにも現実すぎる肉親の“死”と向き合い、生と死を撮影し続ける事を武器に「母の死」への理解と客観性を獲得していく…。残されたしまった娘の、悲しいけれど何処にでもあるお話です。

本特集でこの作品に出会えて本当に良かったと思っている。写真も勝手に使用させていただきました。。

引用元:

同日にギャスパー・ノエ監督作『VORTEX ヴォルテックス』の二度めを観て、この作品とのおおきな共通点である肉親の死について、ぐるぐる考えた。
『ヴォルテックス』はフィクションで、死にいたるまでの苦味をひたすら凝縮したよう。でも死者を悼むことや、彼らの愛した人生の積み重ねと終の住処が解散していく様子までを丁寧に描いていて、近親者の老いと死というテーマがフィクションの中でも凄まじいリアリティとともに身体を蝕んでいく"良薬口に苦し"的な感覚が素晴らしかった。ノエ監督本人も、「誰にでも起こること」と言っているようだ。
一方で本作、母親の死を包み隠さずに実録する中で見えるのは、さわやかで前向きな死に対する当事者たちのきもち。死に直面することは否定せず、それまでの道のりをどう歩もうか母娘で考えていく様子が印象的だった。
世代をまたがった交流の末、安置された遺体を踏んづけてしまう子供のシーンには思わず笑ってしまった。1番最近に生を受けた子供と新鮮な遺体との邂逅というか、家族を継承していくための記録映像として見ると、世代を継いでいくこと、その間に亡くなったひとを記録を通して偲ぶこと、その意義がとても大切なものに思われる。
必ずしも古→新への継承だけがこの記録映像の意義ではない。遺された母親(監督の祖母)もまた、先立った娘が三味線を弾いているビデオを繰り返し見る。自らの先も長くない状態で、若いころに諍いあった亡き娘の人生を抱擁する。自分の人生のなかで、できるだけ鮮度を高いままにしておきたい記憶なんだろうな。
・・・
また、故人の遺したものを受け継ぐかどうか、住居や部屋を整理するシーンが印象的だ。『チーズとうじ虫』は作品そのものが記録として残る一方で、『VORTEX ヴォルテックス』のラスト数カットのがらんどうな住居の写真が見せてくれたように、フィクション・ドキュメンタリーに関係なく、故人の住処や所有物にも、記憶を鮮やかに保ったり消し去ったりするためには効果的な役割があるのだろう。
身近な不幸に常に備えて生活する必要はないと思うけど、記録を残すことや身の回りのものに愛着を持つこと、自分の1番奥の奥に刻みつけるという意味で大事にしたいなあ。

4.『空に聞く』小森はるか監督

東日本大震災の後、約3年半にわたり「陸前高田災害FM」のパーソナリティを務めた阿部裕美さん。地域の人びとの記憶や思いに寄り添い、いくつもの声をラジオを通じて届ける日々を、キャメラは親密な距離で記録した。

東日本大震災についての記録映像はニュース以外に見たことがなかった。痛ましい映像はひとつとしてなく、ラジオパーソナリティーに密着し人々の拠り所と再生の道のりを描いた作品。
ドキュメンタリーというよりは「報道」に近いものを感じた。現地に住み込み、会話に参加し、土地の景色を自分の目で目撃する。そういった地元民と限りなく同化することでしか得られない特別な距離感が演出されている。
完全に地元民というわけではなく、あくまでも東北以外のひとたちに伝えることを目的にした活動なのであれば、外部と内部の視点をうまい具合に切り替えられるということでしょうか。ラジオパーソナリティーの阿部さんも、小森監督になら赤裸々に語ってもよいという気持ちのもと、決して仲間内だけで完結せず小森監督が作品として色々な人たちに届けてくれることもちゃんと見越して発言をしたのだろう。
とにかく地元のひととの距離感が秀逸で、それは信頼感や真摯な態度が見られないと成し得ない作品だと思う。
小森監督の作品はついこないだポレポレ東中野で新作が公開されていた。気になる。

5.『おてんとうさまがほしい』渡辺生(撮影・照明)、佐藤真(構成・編集)

半世紀以上を映画照明技師として生きてきた渡辺生。老後は夫婦でのんびり過ごそうと思い始めた矢先、妻・トミ子に痴呆の症状が表れ…。周囲の人々との交流を支えに、たった一人で妻との日常を撮り続けてゆく。

妻がアルツハイマーに侵されていく様子を包み隠さず記録していて、こちらも『VORTEX ヴォルテックス』を彷彿とさせた。しかし本作は『チーズとうじ虫』とはまた違って、老老介護をどう捉えていくか、長年寄り添いあった夫婦の愛の存在を自ら検証するような映画だった。
この映画を見て、相模原の障害者施設で起きた惨劇、またこの事件を題材にした昨年公開の石井裕也監督作『月』が頭をよぎった。
「意思疎通できない人間に生きている価値はあるか?」という悪魔の証明じみた質問には吐き気を催した。人間は、その質問には答えられないのだ。
その理由は以下にある。

実際の犯人がその質問を投げかけるのはまだ理解できるのだけど、映画『月』でも同じような最悪な禅問答を用いて、「正確に反論できないこと」を入り口に「誰しもが潜在的に持つ差別意識への自覚」へと誘導するのだ。詭弁にまみれた最悪な手法である。

一方で、たしかにこの愚かな質問にすっきりとした回答を得られないのもストレスで、たまに思い出してはモヤモヤしていたが、『おてんとうさまがほしい』には、正面からこの悪魔を駆逐するような言説に満ちていた。
医療現場におけるケアとは、他人同士でも、患者・看護師という関係においても(たとえそれが職務だとしても)自発的に発生するものなのだ。家族同士が助け合うのはもちろんのこと、見ず知らずの他人同士が助け合うことに説明や意義なんて不要だ。何のモチベーションの内訳も説明する必要がなく、そこにただ助け合いが自然発生するのであれば、助ける側も助けられる側も、その存在する価値がまた同時に発生するということだ。
同じような考えのセリフがダーレン・アロノフスキー監督作『ザ・ホエール』にもある。"People are incapable of not caring."ーつまり「ひとは誰かを気にかけずにはいられない」である。人間としての特異点に至ってしまった実際の犯人がこの考えを理解できるとは思わないし、巨大な悪意が天災のような規模と確率で襲いかかってきてしまったのだろう。
ただ『月』はどうだ。ふつうの人間が寄ってたかって映画の中であの詭弁を振りかざすのは本当に危険だし、我々はそんな崩れ去った理屈につまずいてはならない。いちいちあんな映画を観て「考えさせられる」なんて思ってはいけない。

ともかく、『おてんとうさまがほしい』では自分のことを認知しなくなった最愛の妻に対する介護を通し、愛のあり方を模索しその存在を立証する映画だ。老老介護の肯定や肉親を自分で介護することの奨励ではなく、「愛ってこういうものなんだよ」と助け合うことの必要性がいかに説明不要か、というのを見せてくれた作品だと思う。


5作品すべて見ることができてうれしい。特に、断片的な日常をつなぎ合わせた作品群のため、どの生活にも散らばっている要素、特に「愛と死」の存在を実感できるすばらしい特集上映だった。
自分と大事なひとの将来に見返して記憶を焼き増すために、後世のだれかに伝えたいことを残すために、そんな風に日々の生活を記録してみようかなって思える。「日々を記録すること」と聞くと大層な仕事のように感じられるが、大事なひととの生活を大事に思うという、根底にあるその原動力はとても簡単だ。

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