団地の遊び 絵

 子供の頃は、絵をよく描いた。とはいえ、誰でもそうだろうと思う。
 正面から見た車の絵ばかりを描いていた。低学年の時である。車の顔を、描いていたわけであった。
 こういう描き方は、誰もがするのか、そうでないのか、わからない。
 そして、現実に見たことのない車の顔ばかりを描いていた。そのへん走ってるカローラとかスカイラインとかは描かずに、車図鑑みたいな本の、外車ばかりを描いていた。
 唯一、国産車で描いたのは、セリカであった。この車だけは好きだった。人気のある車だから、そういう人は、たくさんいるだろう。
 そのうち漫画を読み始めると、将来はマンガ家になろうと思い、絵をマネして描くようになった。これもまた、誰もがやっていたような気がするーーー誰にも聞いたことはないが。
 マネしたのは、「ドカベン」の水島新司先生、「750ライダー」の石井いさみ先生であった。
 結局、顔しかうまく描けなかった。身体は難しく、ドカベン岩鬼の、あんな躍動感に満ちた迫力ある絵なんぞは、もう無理に決まっている。
 これは後年、知ったことだが、水島新司先生は、球場で実際プレーしている選手をスケッチしていた。これはこの目で見た。後ろを通ったら、絵が見えた。それが、実際、漫画で使われていた。
 そんな人の絵をマネして、ド素人がうまく描けるわけないのだ。
 よって、小学生の時に、自分は絵がヘタ、才能がない、そう見切りをつけ、漫画家はさっさと諦めた。
 授業で、空想の絵を描けと言われた。もちろん先生に言われたのである。
 ものすごく漠然としたテーマである。
 そこで自分は、すさまじく高い塔を描いた。これは描いたあとで気づいたのだが、団地の給水塔とソックリで、単に給水塔を高くしただけといえる絵ともいえた。ちなみに、どのくらい高いかを表すため、下に小さい小さい車を描いた。
 それより、自分が一番驚き、そして感心したのは、里川(仮名)の描いた絵だった。
 コイツは、画用紙の下、四分の一を焦茶色に塗った。土である。次に残り四分の三を真っ黒に塗った。そして真ん中に小さめの白い三日月を描いた。回りに白い点々をたくさん描いて星にした。題は、荒野と月と星。
 これだけの絵なのだが、これは凄い、コイツは天才か?と本気で思った。
 見ようによっては、手抜きの絵ともとれる。しかしそれを感じさせない、妙な画力があった。これは先生もほめて、確かAか90点か、そのへんを取った。
 見たものを描け、そう先生に言われた。写生、そう解釈した奴が多く、外に出てもよいということで、学校外に出て行く者が結構いた。
 自分は、校庭のすみっこで、何を描こうかと思った。最初は学校の壁に掛けられた時計を描こうと思った。校庭から見える、壁の上のほうにあるやつである。
 ところが、手抜きは誰もが考えるわけで、すでに二人もデカい時計だけを描いていた。
 自分は校庭の、はしっこの花壇の壁に座り、結局手を描くことにした。右手て鉛筆を待ち、目の前にある左手を描いた。
 手のひらを描いたわけではない。わかりやすい言い方をするなら、フォークボールを投げる時の指形。
 すると、後日、なんかの大会だかなんだか完全に覚えていないが、自分の手の絵が、とてつもなくショぼい賞を取ったらしく、職員室の壁に飾られていた。
 壁の絵を目にしたとき、どっかで見た絵だな、ぐらいにしか思わなかった。ーーーオマエの絵、貼ってあるぞ。先生にそう言われても、なんのことか、すぐ思い出せなかった。
 しばらくたって、やっと、あの絵か、と気づいた。
 それ程、その頃は、絵にまるで関心がなかったのだろう。
 自分が絵がうまいと思ったことは、一度もないのである。それが、なぜだか、そうなった。不思議である。そして、それ以降、絵が上手いと褒められたことは、ただの一回もない。
 自分の人生で、何かの賞をもらったのは、多分これだけである。皆勤賞すらなく、ともかく、なんにもない。
 今も昔もバカだが、もしかして、絵の才能があるのではないか?と思うほど、馬鹿じゃあなかったのは、幸いといえる。

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