団地の遊び 失われた記憶

失われた記憶

 子供時代のことで、どうしても思い出せないものが、いくつかある。
 まず、給食当番である。マスクをし、白の服を着て、やるアレのことだが、もうまったく一つとして、思い出せない。
 友人にこの話をしたら、やってないわけがない、と当然の返事をしてきたわけだが、ともかく、給食当番の白い服を家に持って帰る。洗ってから月曜日に学校に持ってきて、次の当番の奴に渡す。
 まったくもって、一ミリもそんなことをした覚えがない。
 給食は、大嫌いだった。なので、無意識のうちに、記憶を消去した、というのが、一応の自分なりの答えだが、怖くなるぐらい、何も覚えていなかった。
 給食を食べた記憶はある。ともかくまずい。食べたことに関しての、いくつかの記憶は残っている。
 次は、目の前で、友達が車にはねられ死んだことである。時々ある話といえるーーー自分の回りでは。
 これも、まるで記憶には残っていない。この事実は、二十四才ぐらいのときに、友人Fから聞いた話で、知った。
 はねられた奴の顔は覚えている。名前は忘れているが、顔のほうは、ハッキリしている。
 コイツは、引っ越しする予定だった。つまり、自分の頭の中では、姿が見えなくなったのは、引っ越したから、そう思っている。今でも、思っている。
 ところが、死んでいた。二十四才頃に、友人Fから、ハッキリ聞かされた。
 つまり、友達が目の前で車にはねられた、というのは、人から聞いた話であって、それも何十年とたった日に友人から知ったもので、自分的には、そんな覚えは全くないのである。
 だから、いまだに、ホントか?と思っている。
 ただ、友人F以外からも、その後、話を聞いた。三、四人だろう。
 事故現場を目撃してる奴らが、何人かいてーーー現場後というべきかーーーそこで、自分が警察と話してる姿を、たくさんの人が、見てるそうだ。淡々と話していたらしい。
 事故現場は、団地沿いのバス通りとのことだ。
 どうも、わからない。これを今書いていても、友人から聞いた話を書いてるだけ感しかない。
 どこから、記憶が欠落してるのかも、定かではない。我ながら不思議である。
 服が血だらけだったとか、腕が千切れ吹っ飛んで当たったとか、そんな話ばかり聞かされ、なんかますます信じられなくなっている。
 そして、その友人もこの世にいなかった。
 次は富士山。結構、覚えているのだが、誰と一緒だったかが、絶対的に思い出せない。
 富士山の五合目までは、バスで行った、と思う。すでに、このへんからハッキリしない。
 しかし、五合目の情景は、実に確実に覚えている。観光バスが、何台も停まっていた。足の太い馬が、要するに荷馬車みたいのが、ゆっくり歩き、山道に入っていく。
 土産物屋、食堂、そんなものがあり、結構、賑わっている。
 五合目から、少し歩いた。それは、霧が辺りを覆う砂利状の斜面を横切るもので、大変歩きづらく、そして危険を感じた。
 こんな道、子供に歩かせるんじゃあねえよ、そう思ったのを、よく覚えている。
 すれ違った人の顔もハッキリと記憶している。長めのスポーツ刈りで黒縁眼鏡をかけたヒョロリと背の高い人だった。山なので、こんにちは、と挨拶した。
 斜面を横切って歩いている。霧で一メートル先は、見えなかった。下を見ると、白い坂の霧で、コケて滑りその霧の中に入ったら、もう二度とこの世界には戻れない、そんな感じがあった。
 その後、どうなったのかは、覚えていない。今、生きてるのだから、無事だったわけだが、実によくわからない思い出である。
 はっきりしない話を書いた。すまない。
 給食当番が、一番不思議である。なんといっても、六年間やったわけで、その部分だけが、欠落してるのだから、不可解である。とはいえ、そう思ってるだけで、自分的には、実はたいして気にもせず、ただ、変だなと感じる人生だった。
 事故現場に関しては、ともかく記憶がないので、なんとも思っていない。

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