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警察人生 1章

大学を卒業して警察官となった
私はエンジニアになろうと工学部に進んだが、大学時代あまり勉強しなかった
授業についていけなかったのだ
数学が苦手、電磁気学の理論はチンプンカンプン
やっと、卒業できたくらいだった
コンピュータの授業は好きだったが
成績が悪かった
就職活動しても、良い就職先はなかった
就職活動中、帰る途中で財布を落とした、免許証が入っていた
交番に届けられていた
連絡を受けて取りに行った
交番の警察官に勧誘された
そんな訳で警察に入った
交番の警察官に「これからはコンピュータの時代、警察も捜査に必要になる」とのせられたのだ
財布を落としていなければ、違う人生があったに違いない
警察官になると、警察学校に入学する
また、嫌いな勉強だった
しかも、様々な訓練がある
全寮制だ
地獄の8か月が始まった
最初の1カ月は外出禁止
同期生は最初60人だった
寮では7,8人の班に分けられ、部屋割りがされた
自分の部屋は7人部屋だ
憲法、警察官職務執行法、行政法、刑法、刑事訴訟法、救急法、鑑識技術などの頭を使う座学に加え、
柔道、剣道、逮捕術、機動隊訓練、射撃訓練、教練など、身体を使う授業と盛りだくさんだった
寮監は剣道の達人、陰湿で非常に厳しかった
Hな雑誌が見つけられ、よく寮監室で正座させられた
口答えすると倍返し
竹刀でたたかれ、頭から血が出た
機動隊訓練では夏場でも関係なく、10キロ以上の重装備で5㎞以上走らされた
遅れると、ペナルティを課せられた
さらに、走らされるのだ
警備服に塩がふく、血尿が出た
熱中症状態だった
飯が食べられず、体重が10キロ以上減った
でも当時、途中で脱落する人間はあまりいなかった
近年、半分くらい辞めてしまうため
警察学校は優しくなった
テレビドラマの「教場」みたいなことは現在ではあり得ないのだ
地獄の8か月が終わった
成績は後ろから2番目だった
過酷な状況下で同じ釜の飯を食った仲間は結束力が強い
あれから40年以上経つが、今でも付き合いがある

卒業すると、県内の警察署に配属される
迎えのワゴン車に布団袋を背負って乗った
配属先に着くと、警察署の裏の独身寮に入った
玄関先には新撰組の隊旗が飾ってある
面食らうと、警務課の人が寮長が新撰組「近藤勇」の信奉者だという
さらに、「厳しいぞ」と言われた
ここでも、厳しいんかい?
寮母さんがいて食事は作ってくれた
寮掃除と風呂掃除、独身寮の外回りの草取りは新入りの仕事だった
夕食は必ず、寮長の新撰組のお話を聞かなければいけなかった
赴任すると、1週間程度の教養を受ける
警察官デビューだ
パトカーの後部座席に乗った
管内の状況を説明してくれた
国道1号のドライブインに入った
「ここは犯罪者の休憩場所だ」
と言って、駐車車両をチェックし始めた
1台の薄汚れた県外ナンバーの車を見つけた
日産バイオレット、走る車だ
先輩は
「怪しい、ばんかけ(職質)する  
 ぞ」
と言った
運転席に男がシートを倒して寝ていた
車のナンバーを照会、他県から手配が出ている男が使用している車だった
先輩が窓ガラスを叩いて男を起こし男が起き上がった瞬間、エンジンがかかり車がバックした
素早かった
車は素早く方向転換すると、タイヤを鳴らしながら国道に出た
先輩は
「車に乗れ」
と叫び、パトカーに乗ると急発進した
サイレンを鳴らし、追跡が始まった
逃走車は早く、運転が上手かった
パトカーの速度は150㎞に迫っていた
本物のカーチェイスだ
追い付かない
10キロ近く追跡した
もうじき、署境だ
逃走車が黄色のセンターラインを越えて前の車を追い抜いた
パトカーもそれに続こうと反対車線に出た途端、対向車の大型トラックが目の前に迫っていた
間一髪、衝突を避けられた
結局、逃走車は隣接署の橋で挟み撃ちになって確保された
初めてパトカーに乗って、このような体験をした私はとんでもない仕事を選んだと思った

赴任して1年になろうとした頃、重大な事故が起きた
レジャー施設でガス爆発だ
20人余りの若い女性が亡くなった

当日、非番で車の洗車を命じられ
洗車していた
交通課の規制主任は洗車にはうるさい
タイヤやホイールはタワシで洗わされた
エンジンにワックス掛けをさせられた
突然、ドーンという大きな音がし衝撃波で窓ガラスが震えた
飛行機が墜落したかと思った
8キロ先のレジャー施設でガス爆発だった
パトカーの乗務員が飛び出して来た
パトカーの後部座席に乗って現場へ急行した
第一臨場(現場到着が一番)だった
現場は白い煙で覆われ、視界が悪い
2次爆発が考えられた
前年、地下街で同じくガス爆発があり、2次爆発で警察官が1人が殉職していた
とにかく、負傷者を捜さなければと
必死に捜した
一部黒焦げた人間の脚を見つけた
鼠径部からもぎ取られている
脚の持ち主は近くに倒れていた
若い女性、自分と同じくらいの年齢だった
まだ、生きているが出血がひどく
素人目にも助かりそうはなかった
私はパニックになっていた
心臓の鼓動がすぐ傍で聞こえる
彼女の手を握り、今救急車が来るから頑張るんだと声をかけ続けた
彼女は何か言おうとして、私の手を握りしめて息を引き取った
最後の言葉は「おとうさん」に聞こえた
その後の記憶がない
私は完全にシャットダウンしてしまった
正気に戻ったのは現場に作られた遺体安置所だった
夜になっていた
中高年の夫婦に声をかけられた
娘を捜していた
ご遺体の傍に所持品が置いてあった
婦人が
「これは娘の、」
と言いかけて泣き崩れた
両親と対面した
私が看取った彼女だった
きれいな顔をしていた
私は涙があふれて来た
両親に
「ごめんなさい、どうすることもで
 きませんでした」
と泣きながら言うと、傍にいた先輩がびっくりして、他の場所に連れて行かれた
警察署は混乱していた
私も混乱していた
人生で今まで経験したことがない出来事
今振り返ってみると完全にPTSDになっていた
同期生は署に立ち上げられた捜査本部に入った
私はショックで仕事に出れなかった
やっと、出勤できるようになって課長に呼ばれた
「お前はここでデスクワークをやっ
 てくれ、しばらく交番勤務はいい
 から」
「捜査本部には行くな」
私がガス爆発事故で少しおかしくなっていることを知っていた
先輩から聞いたのだろう
当時、警察署で子供たちに柔道を教えていた
課長に師範代の手伝いをしろと言われた
課長は気分転換になると思ったのだろう
ふだん、めちゃめちゃ厳しいのに、
優しかった
昼間はよかった
仕事をしていると苦にならなかった
ところが、夜は、
毎夜、夢を見た 同じ夢
白い煙で前が見えない 足元の芝生の緑しか見えない そこに人間の脚
彼女の顔
つらかった、夜が来るのが恐怖だった
1年が過ぎた
両親が1周忌に私に会いに来た
署で先輩から聞いて来たらしい
婦人に
「最後を看取ってくれたのですね
 娘は一人ではなかった、あなたが
 居てくれた」
「お巡りさんも、さぞつらかったで
 しょう、決してご自分を責めるこ
 とはありません」
と言われた
これから寒くなるのでと言って、手袋とマフラーをいただいた
この言葉で立ち直ることができた
自分は何もできなかったのではない
精一杯やったんだ
と認めることができた
捜査は1年に及んだ
1周忌が過ぎ、捜査本部は解散した
ーつづく


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