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人生の大きな転機(チャールズ・アイゼンスタイン)

訳者より:チャールズ・アイゼンスタインがロバート・F・ケネディ・ジュニアの大統領選顧問を引き受けることになったいきさつを綴ったエッセイです。陰謀論と括られることの多いRFKジュニアですが、チャールズはそこにこれまで見たことのない懐の深さと希望を垣間見て、自身も哲学者として選挙戦に関わる決心をしたのです。


人生の大きな転機

チャールズ・アイゼンスタイン
2023年05月16日

皆さん、こんにちは。

この1ヶ月、あまり記事をアップしなかった理由と、それが今後に意味することをお話ししたいと思います。

すべては数カ月前の「偶然」から始まりました。ロバート・F・ケネディ・ジュニアは、同じコロナの反体制派であり環境保護活動家として、以前から私の仕事を何となく知ってはいました。でも、それはこの偶然とほとんど関係ありません。私の読者の一人が、「ロバート・F・ケネディ・ジュニアと鷹狩りを楽しむ一日」という募金の抽選に当たりました。彼女はゲストを同伴することを許されたので、私を招待したのです。

鷹狩りに興味はないのですが、私は日頃からケネディ氏に憧れていたので、その誘いを受けることにしました。そこには私と息子のケーリーを含めて少なくとも15人はいました。昼食のとき、その一人が何かの話題について長々と語っていました。私はただ聞いていましたが、ケネディ氏は私に向かってこう言いました。「チャールズ、君はどう思う?」

それが関係の始まりでした。すぐに私たちは頻繁に連絡を取り合うようになりました。私は、彼や他の親しいアドバイザーたちと一緒に旗揚げ前のミーティングに参加しましたが、そこで私は戦略とメッセージについての考えを発表しました。私は彼らの懐の深さに強く心を動かされました。私の考え方が主要な政治運動の共感を呼ぶなどということが、少なくとも私が生きている間に起きるとは、思ってもみませんでした。

共鳴した主な分野のひとつが、和解、団結し、分裂を癒すというテーマです。このブログで何度も書いてきたように、二極化と分裂が現在の危機の核心にあります。一致団結すれば、どんな困難にも立ち向かうことができます。それができなければ、わずかな変化さえ成し遂げることは不可能です。あちら側の最低な人たちが問題なのだという、両側が共有する「大きな物語」そのものが真の問題なのです。いま私たちに必要なリーダーは、一方の陣営に固着して他方に戦いを仕掛ける人ではなく、分裂の背後にある団結の可能性を見出すことのできる人です。皆が共有する道徳的価値観や普遍的な人間の願望に触れることのできる人です。

私がすべての問題でケネディ氏と意見が一致しているというわけではありません。私が彼を称賛する点は、おべっか使いやイエスマンに囲まれていないことです。彼は批判をよく受け止めています。彼は何を知っていて何を知らないかも率直に話します。間違っているときにはそれを認め、考えを変えることも厭わない一方で、強い信念を持っています。彼に話をする者は誰でも、自分の話が必ず聞いてもらえると分かります。

この20年間、私は主にカウンターカルチャーの世界で働き、私たちの文明を定義する神話の変革にできる限り貢献してきました。その神話とは、分断の物語、支配による進歩のパラダイム、他者としての自然などです。私はよく、変化は内側から始まると言っています。イデオロギーの中心は空洞化し、うわべの構造だけが無傷のまま残っていて、それは白蟻に侵された家のように、時が来ればただ触れるだけで崩壊します。私たちの多くは、内面に深く入り込み、知覚や関係性の基本的なパターンを変え、深い癒しの作業をしてきました。そして今、もしかすると上部構造にも変化の時が来たのかもしれません。しかしそれは崩壊ではなく、危機の時を迎えて変貌を遂げるのです。

2016年頃から、私はこの仕事に気が進まなくなってきました。ガラスの天井のようなものにぶつかったのです。私は書くこと、話すことへの情熱を失いました。それを義務のように感じ始めました。私は世間の注目や名声を嫌うようになりました。私には続けなければならない理由が山ほどありましたし、実際その時期に最高の作品をいくつか生み出しました。しかし、私の中の何かが空洞化していたのも確かです。コロナの間、私は全体主義と狂気の流れを食い止めようと最後の努力をしました。その終盤に、私はもうやり尽くしたような気分になりました。人生のその段階は終わったのです。友人たちにも言い続けましたが、私は全く違う道を歩んでみたいと感じていました。フィクションだろうか? 脚本だろうか? 内なる動機に火をつけるものは何もありませんでした。もう全部やめて、引きこもりになるかもしれません。でもそうではなく、もうひとつの章が目の前にあることを、私は骨の髄まで知っていました。そんな年月が長引くにつれ、気持ちは枯れ果て、しおれた寂しい希望へと変わっていきました。もしかしたら、私が期待していたものは決してやって来ないのかもしれません。あるいは、問題は自分自身にあり、内部閉塞や自己破壊のようなものだったのかもしれません。その頃の私の祈りは、「私を有効に使ってください」というものでした。裕福な人々に対してそう言い、薬草に対してそう言い、神に対してそう言いました。どうか、どうか、どうか、私を有効に使ってください。

それは殉教の言葉だったのではありません。私たちがここにいるのは、基本的に2つの目的があるからだと思います。その第一は、畏敬の念を抱いて創造の素晴らしさに目を見張り、その喜びと楽しみを十分に満喫することです。第二は、そこで得た滋養から、感謝の気持ちを地上の生命と美への奉仕に変えていくことです。これら二つの目的は等しいのです。それは与えることと受け取ることです。それが私の世界観の基礎であり、2011年に出版した『聖なる経済学』に最も端的に表れています。それはまた、健康と幸福の基礎でもあります。目的を持っていることによって、心身全体に生命力の流れる道が開くのです。

私の哲学を新しい実践的な方法で実行に移すための、思いがけない遊び場を見つけた私の喜びは、想像に難くないでしょう。着地点を見つけたことに日々感謝しています。「私たちの心が可能だと知っている、より美しい世界」という衝動が、新たな表現手段を得たことに感謝しています。

では、このブログでの私のコラムはどうなるのでしょう? 一時中断することも考えましたが、書き続けることにしました。その理由は、選挙戦に勝つことが最終目標ではないからです。結局この選挙戦は、私が執筆を通じて奉仕しようと努めてきたのと同じことに奉仕しているのです。私が時々「再合一の時代」と呼んでいるものです。もしかして、ターニングポイントは近いのでしょうか?

以前より頻度は減るかもしれませんが、書き続けるつもりです。私が足を踏み入れた世界は、政治や政策、政治哲学に対する多くの新しい洞察の源です。もちろん、選挙戦の内幕を語るつもりなどありません。また、私の文章がケネディ氏の立場を代弁するものでもありません。しかし、私が何を書くとしても、そういう考えや感情が彼の分野にあることは分かっていただけるでしょう。このブログは、政治の世界に足を踏み入れた哲学者の(幸いにも自分が政治家としてではない)考えを綴るものになるでしょう。

そしてもう一つ。選挙戦に勝つことが最終目標ではないと言いはしましたが、私はロバート・F・ケネディ・ジュニアが勝つと確信しています。もちろん、メディアの中傷、検閲、ディープ・ステートの策略など、ありとあらゆる障害物があることについては知っています。ただ、私には不思議な勝利の予感があります。ケネディ氏の話を実際に聞き、そこに溢れる知性、ユーモア、優しさ、そして信頼性を感じ取れば、彼の人格に対する誹謗中傷は気になりません。これまでのところ、様々な政治的立場からの反応は信じられないほどです。アメリカは、人民の力による歴史的な蜂起の機が熟しているのです。そして、それは「支配者層と対決するケネディー」という図式ではありません。官僚機構、経営幹部、権力中枢にいる多くの人々は、私がそうだったように、凍りついた制度、習慣、心理の構造から解放されたいと願っているのです。彼らもまた内部から空洞化しているのです。

私の楽観主義を最も強く後押ししてくれるのは、中心となるチームと候補者自身から受けた私の体験です。これほど才能に溢れ、聡明でありながら、同時に無私無欲な人々に出会ったのは初めてです。内輪もめや駆け引きは見たことがありません。みんな共通の目的のためにエゴを捨てる心構えができています。その光が照らしてくれるのは、私自身にある縄張り意識や承認欲求、認知されたいという欲求など、影の部分です。私にとって、これはスピリチュアルな過程です。そのことについても、また次回以降でお伝えするかもしれません。

ここに書いた中のどれかがあなたの興味を引いたなら、このブログの購読を続けてください。私のような興奮と希望を少しでも感じていただけたら、ぜひ選挙運動に寄付をお願いします。また、選挙運動のウェブサイトにアクセスして動画を見てください。ロバートと私が先週録音した会話は、数日中に紹介する予定です。

読者の皆さん、本当にありがとうございます。多くの皆さんが、この旅路の次の部分にもお付き合いくださることを願っています。

チャールズ


(翻訳:酒井泰幸)

原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/a-major-life-change


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