小説『三分間』第五話

 紫色の世界の海は、真っ黒だった。まるでゼリーのように、ゆらゆらと揺れている。
「そんなところで倒れているから、びっくりしたよ」
 ブルーの眼の青年が話しかけてきた。
「列車が到着しても全然起きないもんだから、どうしたもんかと思ったよ。しかしまあ、君もなんだ、変わったやつだな」
 そう言って彼は手を差し出した。僕はその手を取り、ようやく立ち上がった。彼は、列車で見たときと変わらず、洋服を着たままだった。どうやら泳ぎに来たわけではないらしい。
「水着に着替えないの? てっきり君は泳ぎに来たものかと思ったよ」
 僕がそう尋ねると、彼はこう答えた。
「いや、俺は泳ぎに来るわけじゃないんだ。海はほら、どろどろしているだろう。いつもこうやって浜辺に座って、海がゆらゆらしているのを眺めているんだ」
「そういえば、君の名前はなんなんだい? 聞くのを忘れちゃってたよ」
「俺かい? 俺は、俺の名前を知らないんだけど、みんなは俺のことをロングコートって呼んでるよ。いつもそんな感じの服を着ているからかな。俺の周りでは、名前を持っているやつのほうが珍しいんだ。そのほうがなんか、自由でいいだろ」
 よく喋る人だな、と思った。
「あいつらはなに? あの黒くてぴょこぴょこしているやつら。あいつらは、海に出たり入ったりしているね」
「あいつらかい? あいつらは、リトル、って呼ばれているよ。喋ったりはしないんだけどね。いつも楽しそうにはしゃいでいるんだ。子供みたいだよね」
 よく見ると、リトルはそこら中にいるようだった。みんな小さくて、楽しそうに飛び跳ねながら走り回っている。
「魚釣りをしている人たちはいないようだね。船なんかも見られない」
「魚? なんだいそりゃ」
 この世界では魚がいないのか、と驚き、また尋ね返した。
「魚っていうのは、ほら、海で泳いでいる生き物のことだよ。いないの?」
「こんなどろどろした海に? 生き物なんかすめないと思うけどね。すみたくてもこちらから願い下げだな。君、面白いことを言うよね。そういえば、見たこともない見た目をしていると思っていたんだ。君は、いったいどこから来たんだい?」
 一瞬黙り、どう答えるかを考えた。そもそもここは、なんの世界なんだろう。僕はいつも、ウサギたちのいる世界が異次元だと思って、過ごしていた。新しく来たこの世界もまた、異次元なのだろうか。
「多分だけど、僕は別の世界から来たんだ」
 そう言うと、ロングコートは大笑いしていた。
「別の世界か! 君って本当に面白いね! その、君の世界では、海に魚っていう生き物がいるのかい?」
「うん、海もどろどろしていない。きっと、魚にとってもすみやすい環境なんだよ」
「そりゃあいいな。もしかしたら、俺らの”世界”でも昔は魚がいたのかもしれないな。でも、あまりにも海がどろどろしているんで、嫌になって出てきてしまったってわけだ」
 ロングコートは笑いながら言っていたが、それっぽいことを言うな、と思った。彼は続けてこう言った。
「こんな海を楽しんでいるのは、リトルぐらいだな。俺は入りたくても、洋服が汚れちまうんで、嫌だな。そういえば君、船が見えないとか言っていたけど、昔はこの海にも船があったんだぜ。なんでも、海の向こうには別の陸地があるんじゃないかって探検家が意気揚々としていたんだけどもね、あまりにも他の陸地が見つからないもんだから、結局みんなここに引き返してしまったってわけさ。面白いよね。それっきり、船をこぐやつは少なくなってしまったよ。あまりにも海がどろどろしているんで、船もすぐにぽんこつになってしまうしね」
 別の陸地すらないのか。つくづく変な世界だな、と思ったが、こうやって語る彼は凄く楽しそうで、生き生きとしていた。
「ロングコートって、よく喋るよね。みんないつも、こんなによく喋るの?」
「まあ、俺らは、よく喋ると思うね。いつだって身のないことを喋っているよ。ただ、君はまた別だな。君はこの世界のことを知らないようだし、何より俺の話をよく聞いてくれる。話を聞いてくれる人ってほら、あまりいないじゃないか。なんだか嬉しくってね。あと君はあれだな、あまり喋らないんだね」
 本当にべらべら喋るんだな、となんだか少しむっとしてしまったが、あまりにも楽しそうに喋るので、黙っておいた。本当にこの世界は一体、なんなのだろう。みんな、派手な格好をしているし、ほとんどの人たちが、浜辺でぺちゃくちゃと喋っている。
「そうだ、君、この後、俺の家に来ないか。せっかく友達になれたんだ。お茶でもごちそうするよ。どうかな」
「いいのかい? じゃあ、喜んで」
 ロングコートは悪いやつじゃなさそうだと思った。僕たちは、浜辺をあとにし、駅のホームへと向かった。そういえば、こんな紫色の世界にも、時間という概念はあるのだろうか。夕焼けは、何色をしているのだろう。太陽も何もなさそうな空を見上げて、そんなことを思った。

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