「唯一無二のわたし」と「代替可能なわたし」
社会人になってのファーストキャリアは、大企業の会社員だった。
漫画や小説などで語られていた通り、社会の歯車的な扱いや、そう感じる瞬間などは多々あって、それまでの成育環境では「唯一無二のわたし」だったものが、より大きなもののための一部、その他大勢の中の一人に過ぎないことを、身をもって体験した。
「唯一無二のわたし」から「代替可能なわたし」なんだと。
でも大きな落ち込みは不思議となかった。
むしろ体力がないボクには学校のように全てじぶんに直結してしまう方が厳しく、代わってくれる人がいることのありがたさを同時に感じていた。
つまり感覚的には、「唯一無二のわたし」という手持ちのカードにプラスして、「代替可能なわたし」を手に入れたような感覚で、それを使いわけられるようになって、生きやすくなった。
でも時々この部分で悩んでいる人をお見かけする。
「代替可能なわたし」ということは、「唯一無二のわたし」になれていなくて、そんなわたしには価値がないというもの。
まるで「代替可能なわたし」と「唯一無二のわたし」が一枚のカードの裏表であるように。
しかしこれらは両輪であり、種類の違う二枚のカードなだけ。
ずっとどちらかでいると苦しくなるからこそ、使いわける必要があって、だからこそ両立できる概念なのだ。
「代替可能なわたし」と「唯一無二のわたし」、どちらも健やかに生きていくことには欠かせない。
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