知っていることの価値

学校で、公害問題を学んだ時、なぜ先人たちはこんなことをしてしまったのか、と僕は思っていた。
工業排水を垂れ流せば、環境は汚染され、その環境資源を利用している人間の生活を毀損するのは分かりきっている。
なぜ、そんな分かりきっていることをしてしまったのかと。

公害などの環境破壊は、産業革命後の、工業化や高度経済成長によって問題となり始めたと認識している。
その産業革命は、18世紀中頃にイギリスで起きたが、その時の状況を知ると、また少し違う考えが浮かんでくる。

イギリスでの産業革命は、木材の不足という問題が発端となって起きたようだ。
イギリスでは、12,13世紀以降、開墾や燃料、建築材の確保のために森林の伐採が進んでいた。
また、イギリスは、気候的に、森林が育ちにくい環境であったために、他のどの国よりも早く木材が不足したのである。
木材は、造船などの材料や、製鉄などの燃料としての役割を持つため、不足すれば、国力の低下や、生活の不便が懸念される。

そこで、イギリスは、石炭を、工業用、家庭用として広く一般的に使うようになる。
実は、石炭は、中国では約3000年前、ローマでは約1900年前に既に使用されており、日本でも『日本書紀』に燃える石として記録されている。
イギリスは、それを一般利用し始めたのだ。

これによって、石炭の利用が一般的になり、その需要が増えていく。
拡大する需要に応えるためには、大規模且つ効率的に採掘しなければいけなく、特に炭鉱内の地下水の排水は大きな問題であった。
これは、当初、馬の力で揚水作業が行われていたが、それには限界がある。
炭鉱が地下水であふれれば、その炭鉱での採掘は諦めなければならない。
そこで、開発されたのが蒸気機関である。

このように、木材不足という課題から石炭が使われ始め、その採掘にあたっての排水という課題から蒸気機関が生まれた。
その他にも、派生する問題に、様々な解決策がとられ、大規模且つ効率的な工業生産が行われるようになっていった。
つまり、産業革命は、課題解決の連鎖によって引き起こされたと言っても良いのかもしれない。

そして、人々の生活は変わった。
それまでは、各地方における、農業や牧畜を中心とした生活をしていた。
衣食住、そして仕事は、その共同体の中で全てまかなわれていた。

そこに、工業という新たな仕事が生まれる。
人々は、共同体を離れ、工場で働き、労働の対価として賃金を得た。
それまでは、共同体の中で、衣食住だけではなく、祭りなどの娯楽や、教会での教育なども完結していた。
しかし、そこを離れたことで、他者を意識するようになる。
そして、労働によってお金を得て、そのお金によって欲しいものが手に入る。

こうした生活様式の変化によって生み出された消費意欲は、大量供給を導き、大量供給は贅沢品を含めた物の値段を下げた。
そして、贅沢品を自分でも手に入れられるようになれば、人はどんどんそれを買うようになる。
こうして、大量生産-大量消費という、今日では一般的な消費文化が出来上がっていく。

同時に、人口も急激に増えていった。
それまでは、人口が増えると生活ができなくなるから、文化的な慣行として、人が増えすぎないようにしていた。
口減らしなどはその一例である。

しかし、人口が増えても養える経済状態や、衣食住を生み出せる生産体制があれば、当然こうした慣行は、不道徳なものとして無くなっていく。
生物である人間は、根源的には種を残したいと思うものだし、子供を手放すなど誰もしたくないからだ。
そして、この人口増加は、労働人口を増やし、生産を後押しし、需要も増えるためさらに大量生産を促すことになる。

こうした産業革命の背景を踏まえると、なんだか、あれよあれよと言う間に物事が進んでいったのではないかと感じられる。
世の中が、そんなスピード感で変わっており、それについていかないと、損をする。
周りの人が物質的に豊かになれば自分もそうなりたいし、周りの事業者が儲けていれば自分も儲けたいと思うはずだ。

環境破壊は、大量生産に起因する。
なぜなら、大量に生産するということは、自然の資源を大量に使うということであるからだ。
例えば、衣服においても、元々は動物の毛皮などを使っていたが、それが綿花などの植物を使うようになり、さらに石油由来の繊維を生み出し、利用するようになる。
しかも、大量にだ。

同時に、生産過程で生まれる汚水などの、処理問題も発生する。
ここで、汚水の処理を適切に行っていれば、公害は発生しなかった。
しかし、あれよあれよという間に世の中が変化し、周りはどんどん豊かになっていく。
もしかしたら、若干の問題意識はあったのかもしれないが、それを気にしている余裕もないほど忙しくもあっただろう。
そして何より、その行為が何を意味するのか知られていなかっただろうし、知る時間も手段もなかったはずだ。

学校で公害や環境破壊という問題を学んだ僕たちの世代は、そういう行為が行われていることを知った時、嫌悪感を持つ。
そしてそれは、自分自身が、そういう行為をしそうになった時の抑止力になるだろう。
つまり、それをやるかやらないかは、知っているか知らなかったが、一つの大きな違いではないかと感じる。
知っているだけでは何も変わらない気がする時もある。行動しなければ意味がないと。
しかし、知っていることによって、無意識のうちに何らかの価値ある動きをしているのかもしれない。

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