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『五行大義』(抄本)(中村璋八著 明徳出版刊)を読んで驚いた話

中国は隋の時代、蕭吉(しょうきつ)によって、当時の五行思想および、
術数を編纂してまとめた「五行大義」。

wikiによれば、「『五行大義』の書名は『旧唐書』経籍志、
『新唐書』芸文志、『宋史』芸文志に見えるが、その後の目録に見えず、
中国では滅んだと考えられる。
いっぽう日本では『続日本紀』天平宝字元年(757年)の勅で陰陽生の必読の教科書の中に『五行大義』が見えており、早くから重視されていたことがわかる」

とあります。
中国では失伝したものの、日本では重要な文献だった事が伺えます。

時代は下り、日本の駒澤大学名誉教授であり、中国哲学の研究者であった
中村璋八氏が1973年に明徳出版より訳本を上梓されました。

この冒頭の「解説」の中、「二、撰者、蕭吉の略伝とその著書」の中で、
蕭吉の書いた本について触れられているのですが、
その中で私が個人的に驚いた箇所があり、ブログを書いてみました。

p20の文章を引用してみます。

「蕭吉の伝には、彼の著として、金海三十巻、相経要録一巻、葬書六巻、
宅経八巻、楽譜十二巻、帝王養生方二巻、相手版要秘訣一巻、太一立成八巻が挙げられ、並びに世に行われた、と記されている。
しかしこれ等は何れも、宋代には佚したと思われ、
いまに伝存する書は全くない」

このように、現在ではひとつも残っていないものの、
蕭吉は多数の著作を残しているようです。

ここで「宅経」についての記述注目しました。

「旧唐志」の「五行記五巻、蕭吉撰」に続いて「五姓宅経二巻」が記されている、とあります。

「この「宅経」は、現在「黄帝宅経二巻」が通行している。
四庫全書総目提要二一、子部一九、術数類二は、「宅経二巻、両江総督採進本」」を載せ、「旧本は題して黄帝宅経と言っている。案ずるに漢志、形法家には宮宅地形二十巻があり、相宅(宅地を占い択ぶ)の書であって、
相墓に比べると古い伝統を持つものである

また「葬書」に関して「四庫全書総目提要」ではこう言っているようです。

「葬地の説は、その由来は明らかではない。周官、家人墓大夫之職に、
「皆称するに族葬を以ってす」、とある。これは三代以前は葬る地を選ばなかった証拠である。漢志の形法家に始めて宮宅地形と相人、相物の書が並んで列せられている。そこでこの術は漢で初めて萌えたのであろうが、
まだ葬法は特別には言われなかった。

そうです。いわば、四庫全書に収録された本についての解説本とも言うべき
「四庫全書総目提要」の中で、

「相宅は相墓に比べて歴史が古い」

と明記されている所にともて驚きました。

 
なぜなら個人的に、私が勝手に「陰宅から陽宅が派生した」と
思い込んでいたせいです。
亡くなった人を埋葬する「陰宅」が先に発生し、そこで培われた理論が
生きている人の住む「陽宅」に応用されていったのだ、と
思っていました。

もちろん、「相宅、相墓」と、「陰宅、陽宅」の呼び方の違いから、
実は流れや解釈の仕方が違っているのかも知れませんが、
少なくとも「四庫全書総目提要」で解説を述べた人々の認識として、
「亡くなった人を葬る場所」の選別法よりも
「人の住む家」の選別法の方が歴史が古い、というのは
びっくりしましたね。

「ご先祖を敬う」という姿勢はどの時代も変わらないと思いますが、
その思想から「ご先祖様を安置する場所」をちゃんと定める、という考えが
先にあったのではなく、「今、自分達が住んでいる土地の良し悪し」の方が優先されていた、というのはとても興味深いです。


また、風水を語る上で興味深い部分もその後に続きます。
また長いですが引用させていただきます。

「地を選んで葬る、という術は晋の郭璞に基づいている。(中略)
後世、その術を説く二つの流派が出来た。その一つは宗廟の法といい、
閩中(福建省)に起こった。その起源は極めて古いが、宋の王伋(風水師)になって大いに行われた。その説は、星卦を主とし、
陽山が陽向し、陰山が陰向して、互いに背かず、
主として八卦五星を取って生剋の理を定めたものである。
その学は浙中に伝わったけれども、それを用いる者は少なかった。」

「もう一つは江西の法といい、楊筠松、曽文辿に始まり(中略)その説は形勢を主とし、その起こる所を尋ね、その止まる所に即して位向を定め、
主として龍穴、砂石の互いに配する所を指し示すものである。
今、大江以南は、これに従わないものはない。
この二つの説は互いに異なるが、共に郭氏に基づくものである」

これも「四庫全書総目提要」の「葬書」に関する解説文の中のものです。

これを見ればわかる通り、「龍脈」を追ってその止まる「龍穴」、その周辺の「砂」などを尋ね歩くという、
現在の「風水」として認識されているものは
後者の「江西法」である事がわかります。

さて、前者の「宗廟法」。この中の
「陽山が陽向し、陰山が陰向して、互いに背かず」の部分がちょっと気になっています。

天玉経下巻の冒頭に以下の句があります。

「乾山乾向水朝乾;乾峰出狀元,
卯山卯向卯源水,驟富石崇比.
午山午向午來堂;大將鎮邊疆·
坤山坤向水坤流,富貴永無休。」

天玉経下巻

乾山乾向、坤山坤向は「陽山陽向」であるし、
午山午向、卯山卯向は「陰山陰向」です。
(羅盤のうち地盤二十四山の陰陽による)

しかしながら、天玉経は楊筠松の著作とされており、
先程の解説では楊筠松は形勢を主とする
「江西法」を広めたとされているので
その繋がりはちょっと難しいかも知れません。

他にも「陽山が陽向し、陰山が陰向して、互いに背かず」には
心当たりがあるのですが、まだまだ確証には至らないですね・・・。

中村璋八氏の五行大義解説を何気に眺めていた所、
このような、あくまで私個人の心をざわつかせる(笑)記述があったのは
とても驚く発見でした。

この世の中、知らない事がまだまだたくさんあります。
このように、違う所から知った知識と知識が、
繋がりそうで繋がらなそうな、
この微妙な感覚は、何故かとてもスリルがあって楽しいものです。

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