『ルックバック』とテロリズム

 素晴らしかった。この作品はテロの偶然性に対して、創作ができることの限界をしっかり自覚している。結局テロリストは「この現実」においてどうにもならなかった。創作はそれに対して無力だった。もしかしたら——並行世界でそうであったように——創作物が偶然、たまたま、人の人生を変える「一因子」くらいにはなるかもしれない。けれど、テロリストを止めたのは(並行世界における)暴力だけだった。だから『ルックバック』は、テロに対して漫画を書くことができることはそれほど多くないことを認めている。この漫画は創作の限界に対して真摯である。そして同時にテロリストを単純に排除すれば全てが解決するという素朴な正義を直接には表現しないからには、正義の限界に対しても真摯である。 
 それにこの作品がパッチワーク的に「Don't Look Back In Anger」というメッセージに辿り着くにしても、それはやはりパッチワークに過ぎない、そのことが最も重要なことだと思う。『Don't Look Back In Anger』がマンチェスターでのテロにおけるアンセムであるとして、しかしあのテロの後で「振り向かない」というメッセージを集団的に示すということは、単にイスラムがはらむ問題を無視し、テロを生み出す社会構造を追認するということでもある。これはフランスの大きなテロの後、リベラルたるフランス市民たちが、「いつものようにカフェに行こう」というメッセージと実践を示してしまったことと同じ問題を孕んでいる。「いつものように」過ごし、「振り向かないで」、悲しみと義憤に沈滞する。テロvs「私たち」という構図は維持され、「イスラム国がなぜ生まれたのか」という社会構造上の問題は問われない。
 しかし『ルックバック』はその素朴な前向きさを、間接的にしか表現しない。なにせ作品のタイトルは「ルックバック」なのだ。過去の方を振り向いているのだ。その上で同時に振り向かないのだ。あるいは振り向くことと、振り向かないことが同時に発生するような、そういう感覚がここにはある。過去と未来が重ね書きされながら現在が描き出されるような感覚。だから「Don't Look Back In Anger」にたどり着いたはずの彼女は、机に向かって突っ伏し、まるで過去を振り返り沈滞しているかのようでもある。しかしそれは紛れもなく「Don't Look Back In Anger」でもあるのだ。
 ぼくはここに「祈り」や「追悼」というニュアンスよりも、単に「背負う」というニュアンスを感じる。「祈り」や「追悼」は神の必然性に繋がっている。しかし「背負う」ことは、単に偶然出会ったもの、それに対してたまたま、どうしようもなく出会ってしまったことを、神の必然性を経由せずに引き受けるような、そういうものだ。過去は悲しんで、怒って、神に捧げられて解消されるものではなくて、沈殿していくものだ。テロリズムに対して、創作活動が、正義ができることはそう多くない。にも関わらずある創作物と偶然出会い、背負ってしまったからには続けるほかない。ここに含まれる「振り向かない」ということへの独特の「照れ」は、きっと単なるアイロニーではない。加害vs被害の対立を解きほぐすような、そういうものを含み得るような微妙な間隙がここにはある。だからこの作品は、ぼくのようなテロリスト側になるかもしれないという視点でものを見てしまう側にも優しく響いてくる。あの事件に対する複雑な気持ちに寄り添ってくる。

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 でもその上でだ。やはりすっきりしないものがある。テロリストの表象の圧倒的な他者感にやはり少し何か引っかかってしまう。でもそれは仕方のないことで、この作品にさらにテロリスト側の視点を入れ込んだりするのは、この作品の美しいバランスを崩すことになるだろう。それにTwitter上で木澤佐登志が言及していた通り、「描くこと」に取り憑かれ続ける主人公たちの姿はどことなくテロリスト的である、ということも見逃してはならない。とはいえ…いや、「とはいえ」、「その上で」などということで文を続けるのは意味がない。この作品が素晴らしいことには変わりがない。この作品が教えてくれている通り、出会ったことの偶然性において、各々が沈殿させている過去に突っ伏すようにしながら、創作を続ければいいのである。藤本タツキがそうしたように、創り続ければいいのだ。テロリストの何がしかを「背負う」ものを創ればいいのだ。この作品にはそのことすらも許容し、勇気付けるような何かがある。


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