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【短編】まどろみには届かない

 ありきたりな人生だった。

 年を重ねるなんて本当は大それたことでもなんでもなくて、ただのうのうと息をしていればいいだけだった。それなのに、そんなことすら、できなくなっていたのだ。彼は。わたしは。これからどう生きていけばいい。屍のように踊り続ければいいのか、死人のように口なしでいればいいのか。そう、まどろんだ思考をしているこの瞬間にも着々と今は過去になって、未来が今へと差し迫る。今はいくらでもやってくるのに、過去だけは決してわたしにはならない。そして未来は絶対に私の手にやってこない。残るのは今だけなのだ。そうして、色はあせて薄くなっていく。そう、きっとね。

 朝目が覚めたとき、ふと考える人が「好き」な人、らしい。ワクワクと好奇心の塊のようにそうわたしに告げてきた姉の顔とともに、今朝起きて、歯を磨がこうと歯ブラシに歯磨き粉を乗せた瞬間に何故か思い出した。口に突っ込んだとき、不思議に高揚している自分の目と鏡の中でかち合ったから、少しにやっとしてみた。同じ所作をしている癖に、なんだか不思議だ。その口の端からつつ、と白いどろりとしたものが伝ってきて、何とも言えぬ生暖かさに少し吐き気がした。急いで洗面器に唾を吐き出して、そのときにちらりと見えた私の目は、どす黒くにごっていた。まるで虚空みたいに。ぐちゃぐちゃと泡立って、ゆっくりと流れていくそれを、なぜかわたしは排水溝に流れ落ちるまでずっと、ずっと眺めていた。耳にかけていた髪がするりと撫で落ちるのにも構わずに。
夢を見たの。少し、ふやけて黄ばんだ、古ぼけた文庫本を飽きずに乾いた手で捲るアナタをずっと、隣で眺め続ける夢を。その時間はとても心地よくて、暖かかった。そのときだけは、わたしが私でいられるような気がした。この世のすべてを私とアナタだけにして、そのほかのことなんてさっぱり抜け落ちてしまう。身体をふわふわ撫でる風も、呼吸も、体温も、全部が私たちのモノで、時間すら支配してしまったみたいだった。アナタは私にこれっぽっちも目線をやらなかったけれど、私はそれでよかったのよ。私をまるでいないかのように、隣に居させてくれたことが何よりも代えがたく、嬉しかったから。でも一つだけワガママを言うならば……一瞬でもいいから、その何度も何度も目を通してもはや諳んじることができる癖にまだ懲りずに読み続けたその本を置いて、上手く動かせない表情筋でちょっぴり微笑みかけて、カサついたキスをしてくれたってよかったのよ。夢の中じゃなくてもいつだって、乙女は愛される瞬間を待っていること、アナタは知らなかったのね。でもそれって、あんまりにもアナタらしくて笑っちゃう。
意識が浮上していく、深い絶望と刹那の希望。少し重い頭を起こした瞬間、自らの身体を見てあまりの浅ましさに泣きたくなった。
「……どうして、なんて、馬鹿なことを」
彼の姿が、ずっと脳内で回り続けている。もう一度目を閉じれば、今度は彼に触れられそうな気がしてしまって、怖かった。自分の中の彼を、自分が、殺してしまいそうだった。わたしにひとつも構おうとしない彼の姿は、わたしが思う彼そのものだった。だからこれ以上は何も見たくなかった。またいつか会えたなら、いつの間にか伸びてしまった乙女の象徴を切り落としてしまおう、なんて。だけれど、こんな、こんな出会いなんてしたくなかったの。もう、認めてしまおうか。いつの間にか疲れていたことに、やっと、気付いたんだ。
 切れかけた髪ゴムをそっと外す。肩にかかる黒い束を掴んで、ジョキリ。ジョキジョキリ。細やかな束が身体を滑り落ちて、塵のような破片が床に舞う。ところ構わずにまき散らす黒は遠慮なく顔にも、まるでそばかすのようにくっついていた。
 すっかり涼しくなった顔に気が付く。冷えてしまったのは髪を切ったせいだけじゃなかったんだ。そこでわたしは、やっと鏡を見た。そこには頬をつたった涙が、張り付いた短い髪の毛を流してぐしゃぐしゃになった顔があって。まるでわたしは滑稽で、瞳に映ったのがそのまんまわたしの心だったから余計に泣いてしまったんだ。

めっちゃ喜ぶのでよろしくお願します。すればするほど、図に乗ってきっといい文を書きます。未来への投資だと思って、何卒……!!