キラキラしているニンゲンなんて妄想を押し付けないでくれないか
愚痴だ。
最近ではこういったことを口(言葉、ツイート、会話、記事などなど)に出すのを控えていたのだが、やはり私にはこの手段を禁じることが出来なかったようだ。
目の痙攣は相変わらず私を苦しめている。今日の夕餉に、母がレバーの生姜煮を出してくれた。そのお陰かどうかは知らないが、今は比較的症状が落ち着いている。たまに痙攣が来る程度で、目への不快感は、そこまで常在していない。
早速だし、この機を見計らって、近頃の不快感を記しておこうと思う。
目が変になってしまうと、生活のための所作の全てを封じられてしまう。趣味も、勉強も、その他生活の何処かしこも、等しくこの不快が付き纏うのだ。
やってられない。
何よりも私が辛かったのは、PCが見られないことと、本が読めないことだ。文字を打つことが出来ない(画面を見ていられないので)、追うことも出来ないとなると、私に存在価値などがない気が、ふつふつ湧いてきてしまうのだ。
何も出来ない私を自覚しない様にしていたのに、こうも分かりやすく「できない」を突きつけられてしまった。苦しくないわけがない。
昨日の夜の事だ。
こんな身体が嫌で、何もできない自分も嫌で、何のために頑張っていたのか、生きているのかが分からなくなった。この辛さを叩きつけるための手段も失われていたので、本気で死んでやろうと思っていた。この苦しさに対する明確な終わり=死、だと救いを求めていたからだ。
手を伸ばせる範囲に、助けを求めるなんてしたくなかった。そんな人間なんて、身近に居なかったからだ。中途半端に拐かされてハイ解決、そうでしょ?ね??と相手の自慰行為に付き合わされるだけなのが、目に見えていた気がした。
本当はどうだったのだろう。もしあの時、誰かに救難信号を発していたならば。今になって疑問が生じる。十中八九、私の予想通りな気がしているが。
救われる、救われたいとかそういった願望は、私の自分本位な理想の押し付けであって、救済とは基本そういうものだ。誰だって、都合のいいまま一生を終えたい。
生きづらさを抱えて生きる人間が多いことは知っている。だが、それが私が彼らに忖度して、気を使ってやる必要なんて、どこにあるというのだ?私は私の生きづらさを声高に叫ぶだけだ。
現実では誰にも助けて貰えないからな!都合のいい救済なんて、私のような人間が欲してはいけないのだ。だから。叶わないことは、叶わないと知っているから口にできる。
思い通りに動かない体が苦しい。完全な同意が欲しいとか思っている。こんな私でも認めてくれ、そんな叫びが聞こえる。どんな私がいても、それでいいよ、と。そう肯定してくれやしないか。
都合がいい。そんなこと分かっている。虫が良すぎる願いだ。神に祈ったとしたらば、そのあしらいの鼻息で木っ端微塵にされてしまいそうな願いだ。
それでも、私は普通に生きたい。普通に生活をしたい。毎日学校に通い、程々に放課後を浪費して、仲睦まじくとは言えなくとも、暖かな家族との時間を過ごして、どうでもいい人間と「おやすみ」だとかいう妄言を交わしたい。
食べたいものも、したい事もよく分からない。それでも、何かしなくては、という焦燥感が私をギュウギュウに拘束している。こう生きなくては、ああしなくては、もっと立派なニンゲンであれ。だとか、ナントカ。それらを唾棄出来なくなっている。それ程に、私が追い詰められている状態だということなのだろうか。
ご立派な理想通りに生きなくてもいい。
脳みそでは理解しているし、そうやって生き長らえてきた自負はある。だが、今の私にはそう思う心が抜けている気がする。胸の奥がずっと凝り固まっていて、ちょっとやそっとじゃ解れてくれなさそうだ。
自分の癒し方が分からないのだ。自分の労り方が分からないのだ。自尊感情とかも知らないのだ。そこに在るだけでいい、なんて言われてみたいのだ。自分では到底思えないから、また頑張るしかないのだ。目的もない癖に。
めっちゃ喜ぶのでよろしくお願します。すればするほど、図に乗ってきっといい文を書きます。未来への投資だと思って、何卒……!!