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読む長澤まさみ講談『SOS〜ビューティフルマインド』

『SOS』
「ゴッホゴホ」
 私はあまりの埃っぽさに、咳き込んで目が覚めた。見覚えのない小さな家のひと間。ほこりだらけの革張りのソファに、今にも脚が折れてしまいそうなボロボロの食卓に、卵焼きくらいしか作れそうにない心ばかりのキッチンが備えられている。
「どこ?」
 私は立ち上がり、服のほこりを払い、ひとまず冷静になって、今の状況を考えてみた。きのうのことも思い出せない。一昨日のことも、それどころか自分の名前さえも覚えていなかった。
「私は、誰?」
 食卓の椅子に腰を下ろした。壁に丸い鏡が掛けられている。自分の姿を写してみた。誰だかは分からないが、鏡に写った自分は、ことのほか、
「きれい」
だった。そんなことより、ここはどこなのだろう。ドアを恐る恐る開けると、ザザザァーと波の音、目の前に海が広がっていた。途方もなく視界は広がり、水平線がみえている。建物から出ると、裏は木々が茂っていた。
「誰かいませんか」
大声で呼びかけても、草木の風に吹かれる音か、よくて聞いたことのない甲高い鳥の声だけが帰ってきた。
「無人島?」
 自分の名前はわからないのに、なぜか、食卓、鏡、ソファ、海、鳥に無人島、そんな言葉は何一つとして不自由がない。不思議だな、と変な関心をしていた。あまり焦りや恐怖がないのは、記憶がないせいだろう。なぜなら、帰る場所がわからない。もしかしたら、この島の住人だって可能性も否定は出来ない。でも、この島からは抜け出したい、そう本能が言っている。私は砂浜にSOSと書き、飛行機から見つけ出してくれることを願った。でも、見上げようとも待とうとも、上空に飛行機が飛ぶことはなかった。2日目、キッチンにカセットコンロがあって、わずかにガスが残っていた。私はそこから火をとって、草木を集めて火を起こした。これなら船からも見えるはずだ。太陽が真上に上がったころ、水平線の右端に小さな船が見えた。ここから見えるのだから、きっと実物は大型船に違いない。私は草木をどんどんと足して、炎を大きくした。やがて船は水平線の真ん中あたりまで進んだ。陽は早や傾きかける。
「いや、だめ、行かないで」
 私は必死になって手を振ったり跳ねたりしたが、こんな物で向こうから見える訳がない。何か音の出る物や、花火や照明弾のように高く遠くに光の届く物がないかと、小屋の隅々まで探したが、そんな物見つかるわけはない。日は傾き、私はひたすら船を眺めているだけだった。
「ヒッチハイクなら、こんな美人を放っておくわけないのに」
 私は思いの外に美しかった自分の顔を気に入っていた。
「か、鏡」
 まだ日は落ちていない。私は鏡を外して、日の当たる場所を探し、船の方に角度を調整して反射させた。徐々に日は落ち、影が私に迫ってくる。もう時間がない。
「早く気づいて」
 祈る思いだったが、とうとう日が落ちてしまい。また暗闇の無人島に私はひとりになった。小屋の白壁にもたれて、呆然としている間に寝落ちてしまったのだろうか。次、気がついたときには、船の汽笛の音が聞こえた。
「助かった」


聴く長澤まさみ講談『SOS』
https://youtu.be/J45nn-TE52k

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