2023-08-1/2

城崎から帰って10日ほど経つ。目の前のクリエーションと東京から持ってきた仕事をこなしても十分に街や海を回る時間のある日々はまさしく夏休みで、幾度となく終わるのを惜しんでいたけれど、時間的にも空間的にも切り離されるやいなやあっけなく褪せていった。話すことは経験の共有でもあるし、きらきらしく過ぎていったものごとの輝きをもう一度手元に手繰り寄せる行為でもある。まだ話し足りていない。

自転車で城崎を出て豊岡市街に向かう道も、海岸の方に向かう道も、まもなく大きい川に開けて、水鳥の群や湾が見える。温泉街には小さな花火が毎日揚がり、人とそれを見に行ったり行かなかったりする。山ひとつ越えたところにある町の花火大会に自転車で行き、帰り、明かりひとつない杉の暗さにおののきながら喋って……。それらはもう記憶の澱のなかに沈んでしまって、膜ひとつ隔てたところにある。陳腐なくらいそれっぽいこれは架空の夏休みだと言い合っていたけれど、この期間のことを話すたびにそうではない細部が浮かび上がったりもするのだろうか。

日に数時間のクリエーションと朝夕の自由時間、ときどき半日や全日のオフ、という生活を劇場で繰り返して家での過ごし方や動線を身体が完全に忘れてしまった。財布やキーケースを鞄から出したあとはどこに置いていたのだろうか?それらを思い出すのに三日ほどかかった。壁面本棚、本棚、デスク、ローテーブル、ベッドで占められた遊びのない空間は一度自分から切り離されてしまうと、機能であることを課される空間のように思われてそこにいることがぼんやりと苦しかった。

しばらく泥のように過ごして、仕切り直すために高島邸へ。例のごとく寛容さに甘えておおよそ一週間ほど滞在した。最初の一日はあまりにも元気がなかったのでゲームしかできず、ダンガンロンパ1をその場で買い、ほとんど休みなく12時間ほどでクリアまでいく。ジェンダー観は太古のそれだったけれど、推理ゲームとして意外性と伏線のバランスがよく、一気に進めてしまった。ゲームは過集中との相性がよすぎて20時間程度までならノンストップでできてしまうので、意識的にあまりやらないようにしています、が、鬱でマインスイーパーに明け暮れるよりは気持ちの上でははるかによい。

そこからまたダイニングにある二人掛けのソファに寝そべって本を読んでいると気持ちが落ち着いて、自分の家に足りないのはこれだと思う。くつろいだ姿勢をとれる空間がベッド以外のどこにもない。オカンポの『蛇口』とマッカラーズの『結婚式のメンバー』を読む。クィアリングという観点で対照的な2冊だった。『結婚式のメンバー』で描かれるあらゆるパーティーから疎外される感覚を長い間感じ続けてきて、パンデミックの折にそれが極まって、そしていつの間にか薄れていった。その転換の具体的な時期はわからないのだけど、ちょうど一年前に高島さんと出会ったことは大きかったかもしれない。クィアの話をする機会が多くなったのはそれがきっかけだった。高島邸にはおそらくもう30日ほど泊まっていて、最近は家主を僭称して否定される遊びを毎回しているのだけれど、メンバーであるかどうかはさておき、そこにいることを承認される場だとは感じている。逆に言えば自室はそこにいることを承認されていない場だと感じているのかもしれない。その場合の許可は誰から誰に?過去のわたしから、わたしに?

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