2023-07-12-13

頬を打たれるような知らせに同居人といくばくか話をする。同居人が眠る頃、過去にあったこと、これから起きることの想像に気持ちが引きずり落とされる気配を感じはじめて、このまま動かずにいるべきではないと思った。同じところを回りだした思考から遠のくために手や身体を動かす必要がある。そうして部屋の掃除を始めていると、別の思考が動き始める。

一度書き、自分で自分に課している倫理(のようなもの)から消して、沈黙を保つべきではないかとしたこと、そのことにもう一度迷いが生じている。ある人の死に際して、他の誰もその人の死を死ぬことができず、それゆえに人の死について推し量るような姿勢を取りつつ何かを語ることは、多かれ少なかれ故人の影をかき消してしまう。自分が直面している嵐の一つがその人にも襲いかかっていたとして、近縁者でもなければ熱心な関心を寄せていたわけでもなかった人間がそれに際して「嵐」について語ることはひどく傲慢なように思われた。それが沈黙に移行した理由だった。しかし同時にそれに対する疑念もまたあり、その過程を書き残しておくことはなにがしかの意味がありうるようにも思われたけれど、人を殴打していて、そのことによってまた別の打ちのめしを生じているような憎悪に対する反証的な立場からの応答は、現にそれが起こっている以上、(ある種の冒涜性、正しくなさを引き受けて、そのうえで)やめるべきでないのかもしれない、と思い至ったとだけ書き残しておく。

掃除だけでなく身の回りのものの整理もはじめてしまったので、全てが終わるまでにひどく時間がかかってしまった。わたしはそこが自分の〈家〉であると認識するだけで気力が削がれてしまうのだけれど、嵐やその気配がつねに吹き荒れていたあの〈家〉とは別の家として自分の部屋をつかみ取るために、なんらかのこだわりや愛着を招き入れる作業をするとよいのかもしれない。まずはひと揃えのテーブルと椅子を置くところからはじめたい。そこに幾度も人を呼ぶ。戯れのような不確かなものであっても、喜ばしい(少なく見積もってもましな)未来への想像をなんとか手繰り寄せなければ、でなければ……。

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