見出し画像

みどりが二人

私の人生に大きな栄養を与えてくれた、二人のみどりさんがいる。一人は木内みどりさん。そしてもう一人の友人みどりさん。どちらのみどりもひらがな表記、どちらもとっても芯が強く、自分というものをしっかり持っている。そんなに簡単に折れたりしない。多分そこはよく似ているような気がする。

人生では子供の頃からそして今に至るまで多くの人と関わり合う。しっかり覚えている友人もいれば、あれだけ学生時代に同じように濃厚な時間を過ごしても、今は連絡先も全く知らない人もいる。

12歳になってから今に至るまでずっと仲の良いわたしの友人、彼女とそして後3人ずっと中高を一緒に過ごして、バンドも作った友人がいる。その一人はアメリカに行き、残りの二人は日本にいるであろうけれど、わたしも彼女も怒涛の30代を過ごし、多分あちらもきっと怒涛の時代を過ごしていたのではなかろうか。この10年、お互いに余裕もできて、元気でいるのだろうかと気になって探したが、同窓会名簿にも出てこなく、消えてしまっている。あれだけ、一緒に時間を過ごしたのに。女性の場合は結婚をして名前が変わるというのも探すのが難しい理由かもしれない。

そんな中このお二人とは、時間の共有はそれほど無い。でも、この10年というわたしの最近の人生に大きな役割をしてくれている。2019年、母が亡くなって1年後の日本に戻ったとき、すでに友人のみどりさんは、病気で闘病生活に入ったところだった。治療中ということで東京滞在の間も、彼女に残念ながら会うことができなかった。

その代わりに、そのときに生の木内みどりさんと会うことができた。そして彼女がライフワークにしていた、広島原爆について描かれた絵本、おこり地蔵の朗読に一緒に連れていってもらうことができた。4日間東京滞在の間、二人目のみどりさんに会えない代わりに木内さんに会えた。そして二日目に木内さんのやっていた小さなラジオの11回目に、木内さんのインタビュー形式で私とオーストリアの友人が海外の事情をスカイプを繋いで、日本とオーストリアとで録音した。<その放送は編集されたとは聞いたけれど、未発表となった>そして一緒に映画を見にゆき、その後の打ち上げのような会にも一緒に参加させてもらい、中華を食べて別れた。お互い結構ご機嫌に酔っ払い、駅の前で抱き合って、次はヨーロッパに来てね、暗闇大好きなみどりさんにぴったりのところにご案内するからという計画も立てた。ただ彼女が、「私来年70歳になるんだけれど、いつまでこんなことできるんだろうって思ってるのよと」と言ったこと。全く元気で動き回っていた木内さんを見て、後10年ぐらいは走り回って過ごすに違いないですよ。また生きて元気で会いましょう。「そうねえ、来年またね。」それが最後に交わした言葉だった。

大阪に戻ってスイスへの帰国準備をしていた時に、木内さんから、あなたもう、スイスに戻っちゃったのというメイルが入った。木内さんがとっても張り切って、取り組んでいた広島のお仕事であることを知っていたので、まだ大阪、明日出発します。とだけメイルをした。そして、スイスに戻るトランジットのヘルシンキで、彼女の死亡のニュースを友人から聞いた。そのショックは忘れられない。何しろ涙がすぐに出なかった。

木内さんとのそもそもの関わり合いも不思議で奇妙な偶然。2011年のあの東北の震災。あの地震が起きた時に、ついに来てしまったと思った。わたしは日本の原発が大丈夫、っていう神話をチェルノブイリが起きて以来信じていなかった。自分に今できることは何、それを考えながら、2012年日本に戻り、福島を見に行きたいというプランは持っていた。
その計画を夫にした時に、それだけはやめてくれと言われた。年老いた母と会うことが目的で、ちょうど父が亡くなってからの1年目でもあったし、無理ない程度に誰にも言わずにできれば福島を見に行こう計画を密かに持っていた。ところが、日本に戻る2日前に滞在していたタイで事故に遭い、結局その後2年間日本に戻れなかった。まあ、よく考えたら、よく生き延びたのだけれど、自分の健康、家族の問題があり、福島、原発についての調べはどこかに行ってしまった。実際20数回に及ぶ麻酔と手術では、本を読んでも難しい文章は全く理解できない、鬱なんかと同じ状態。全く言葉が入らない。コロナ後遺症ともよく似ているのだろうが、頭の中に霞がかかっているような感じ。だから2012から数年の間は、あんまり世の中で何が起きているかわかっていないし、興味が持てなかった。

2015年ようやく自分の健康と問題以外に、再度、福島、原発というわたしの関心が戻ってきた。そこで調べた、もちろん小出裕章氏が一番最初のスタート地点、そこから市民団体とかを辿っていくと木内さんに行き着いた。そしてインターネットラジオからそこに木内さんにメッセージを送ったのが最初だった。その後、小さなラジオを立ち上げる時、そしてTwitterで絵を書き出した時、どのぐらいで本を売ろうかしら、とかいうやりとりをしていった。その中でもう一つわたしに衝撃を与えたのが、木内さんの小さなラジオ出演の安富歩東大教授の話だった。子供の虐待とその子供が持つ人格形成。この番組を作ってくれた木内さんには感謝しかない。この放送がわたしを救ってくれ、生きることをずいぶん楽にしてくれた。心の闇をこじ開けることができた。そのことも木内さんとやりとりした。全然知らない人だったのに、そして芸能界というわたしとは関係ない分野の人なのに、ふんわりと降りてきた心の優しい天使だった。

私の話を面白がって聞いてくれて、ねえ、それを文章にしてよ、私が読みたいから。ブログにしてちょうだい。って言ったのは木内さんだった。読むのは大好きで大丈夫だけれど、書くのは最近手紙すら書かないし、人に読ませるなんて無理。って言ったら、いいのよ、私に読ませてあげるって思って書いてよ。と。それだけ投げかけて、木内さんはわたしの人生から春一番の風みたいにくるっとどこかに出発してしまった。でも書いてみようとスタートしたのがこのブログだった。そのときに喜んで読んでくれていたのが二人目のみどりさん。「みどりさんが読んでくれる」

二人目のみどりさんとは、同世代、スペインで知り合った。家族構成と年齢もよく似たお互いの家族。スペイン語を勉強されていたお父様が退職後に憧れていたスペインでの生活をしたいと、アパートを購入されていた。そしてそれがわたしの住んでいたところから近かった。お母様が一緒に来られない時に、みどりさんがお父様のお世話に一緒に来ていた。スペインの地中海側、南に位置する田舎では、車生活が普通である。だから車の運転ができないお父様、免許は持っているけれど、ほとんど運転していないみどりさん、かなり不自由な限られた行動範囲だった。だから時間のある時は市場に行くのにご一緒したりということがあった。

その彼女と私が急速に距離を縮めたきっかけは本だった。活字中毒者であった私は、日本から船便でかなりの量の本を持っていた。日本帰国のたびに船便で送り、当時はまだ若く元気であった母もあれこれと送ってくれていた。その中でずっと読んでいた、「本の雑誌」これは日本にいた時のバックナンバーも捨てられずに全てスペインに持っていた。それを見たみどりさん、こんなところでこの本を見るとはと。それが私たちの親しくなった始まりだった。

彼女以上にお兄様が強度の活字中毒者、活字中毒者という言葉も椎名誠さんが使ったものだったから。それ以来、私たちの共通の話は「本」。不思議な活字中毒者の繋がりだった。彼女は文章が丁寧で、校正もしっかりしていた。だから私のブログを読んで、この漢字の間違いがあるわ、とかここが少し変。と正確に教えてくれた。だから信頼に値する彼女が最初に読んだらちゃんと知らせてくれるのが嬉しかった。そしてきっちり感想を伝えてくれる。彼女の読解力は本当に丁寧なのである。

ADHD、発達障害、傾向のわたし、限定された行動、興味、反復、過敏と鈍感を極端に持っている。わたしには彼女の持つ正確さ、几帳面さが本当にありがたい。丁寧に読み込み、それをちゃんと記憶してくれている。わたしと言えば、書いたものは書いた後にはすぐ忘れているし。実に鶏なみ、もしかしたら鶏以下の記憶力かもしれない。本当に直感覚だけで生きてるんだなと、猛反省。あの時「本の雑誌」が仲介しなかったらみどりさんとは、結構あっさりした知り合いで終わっていたかもしれない。彼女はわたしの友人の中には存在しないタイプの人だったから。それが今やわたしの人生をしっかり把握して、色々なアドヴァイスをくれる。自分の身体が大変であるのに、なおかつ我が弟のことまで気遣ってくれている。人生は予期できないことの連続である。その中でも人との出会いが人生をまるまる変えてしまうその最も顕著なものだろう。それがわたしをスペインにそしてスイスにまで連れてきたのだから。

今回のブログは友人のみどりさんに贈る。大切な友達になってくれてありがとう。そしてずっとこの友情が続くことを。。。永遠にね。