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近くにありては偲べない @わっせ

こんにちは、TAIDENのノートへようこそ。月曜担当のわっせです。

今週のテーマは「住」です。これで、「衣・食・住」の3つがそろうわけですね。今週ものんびり書いていきたいと思います。

ぼくは、千葉のド田舎で生まれました。電車は1時間半に一本、バスはなし。地平線という言葉の意味は、田んぼを観察していればわかる。毎朝中学校へ通うのに、広大な田んぼの間を縫い、牛小屋とふたつの豚小屋のそばを通り過ぎる。そういう土地です。

15歳までのぼくは、そんな場所が大好きでした。たとえば、秋。高台から望む黄金の稲穂が、風の軌跡を描いて波打つ。「穂波」という言葉の語源を、ぼくは経験をもって知るに至ったのです。眼下に広がる田んぼは、一枚の黄金の衣に見えました。思えば、田んぼも衣の生地も、「反」と数えます。

ぼくにとってその光景は、誇らしいほどに美しく、きらきらと輝いていて、自分にとって大切な宝物のように思えていました。

しかし、高校へと進学し、「ちょっと都会の生まれ」の人間と出会うようになり、その考えは一気に変わります。かれらにとっての日常は、吹きさらしの田んぼの強風に逆らって必死に自転車を漕いだり、逐一顔にかかってくる虫を払い除けたり、家畜の糞尿が混じった農業用水路のにおいに鼻をつまんだりすることではないのです。かれらの日常は、帰り道にだれかの家で遊んだり、ハンバーガーを食べたり、カラオケに行ったりすることでした。

ぼくは、うらやましいと心底思いました。当時のぼくはカラオケが好きでしたが、隣町まで電車に乗って、さらに数十分徒歩でお店に行くか、1時間以上自転車に乗って山を越えるかのどちらかしか手段がありませんでした。それをかれらは、学校帰りに、あるいは徒歩で気軽に行けるというのです。

ぼくの故郷はお金がなく、公園の整備もろくに行われず、遊び場といえばもっぱら小学校の校庭か、だれかの家か、あるいは家でテレビゲームをするだけでした。ぼくの家のあったところは、とくに近所に友達がおらず、ぼくは毎日ゲームをしました。それしか娯楽がないのです。

ぼくは何も知りませんでした。部活の遠征先で、イトーヨーカドーのセブン&アイグループの看板を指差し、「あのセブン、でっかいね」と言って、どえらい恥をかいたことは忘れることができません。

大学に入り、さらに交流する人間の幅が広がりました。高校の段階では考えられなかったほど都会の生まれの友人ができ、その生活も知りました。ここでもぼくは、心の底からうらやましいと思いました。

なかでも一番、とりわけ、どうしようもなくうらやましく、妬ましく、そして我が身を呪ったものは、教育です。

ぼくは大学に入り、塾講師としてアルバイトを始めました。都会は塾が選び放題です。徒歩で行ける距離にいくつもの学習塾があり、きちんとレベル別に授業が開かれる。偏差値が20以上も違う子どもが同じ教室で授業を受けることはありません。なにもかも、ぼくの経験したことと違います。

進学する高校も、選択肢がたくさんあります。偏差値55の子は、偏差値55の高校か、少しチャレンジして偏差値58の高校を受験できる。偏差値68の子は、偏差値68の高校へと行ける。70を超えれば、もっと選択肢がある。偏差値60以上の子はすべて同じ高校を目指していたという、ぼくの経験したことと違います。

いまでも忘れられない、塾の生徒の言葉があります。

「先生、おれ高校なんてどこでもいいよ」

その子は、偏差値60を超えており、選択肢は私立高校も含めればかなりの数がありました。ぼくはおそらく初めて、生徒に対して強い言葉で、叱るというよりは怒るような声を出しました。「選べるっていうのは、幸せなことなんだぞ」と。ひとつしか選択肢がなかったのとは、まるで違うのですから。

その日の帰り道、ぼくは、一刹那だけ、生まれてはじめて、親を恨みました。「なんでもっと都会に住んでいてくれなかったんだ」。

すぐに自分を恥じました。いまさら嘆いても仕方がないし、親にだって事情があったはずです。そう言い聞かせたとき、ぼくはようやく、このことばの意味を体験をもって知るに至ったのです。

「格差」


「生まれた場所で咲きなさい」という言葉があります。極悪な言葉です。芽が出るために必要なものを、きっと知らないのだと思います。「田舎には田舎の良さがある」とだれかが言いました。挙げてみてほしい。そのすべてに、ぼくは経験と知識によって反論ができます。それ以上に悪いところを挙げられると思います。ぼくの故郷は、5つあった小学校がひとつにまとめられました。なぜ「良さ」がある田舎で、こんなことが起きるのでしょうか?

「ふるさとは遠きにありて偲ぶもの」ということばの同意語は、「井の中の蛙大海を知らず」です。そうしてぼくは、少しずつ故郷が嫌いになりました。それは、自分を嫌いになることとよく似ている気がします。

ぼくの夢は、ぼくの住む世界を好きなもので埋めることです。

さて、ぼくはその世界に住むことができるでしょうか?


文・わっせ

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